第1話 四百十二回目の案内で、僕は追い出された
十七階の階段を半分まで登ったとき、前を行くトマの肩で、革紐の切れる音がした。黒い筒が背中を滑り、石段に当たって跳ねる。かん、かん、と硬い音が下へ遠ざかっていった。
「団長の地図が!」
トマの肩が、後ろへ回りかけた。センは一段駆け上がり、その頭を両手でつかんで正面へ戻した。首の骨が、ごきっと鳴る。
「前です。前だけ見てください」
「セ、セン、でも筒が」
「分かってます。肩も動かさないで。つま先もです」
トマが息を止めて固まった。その上を登っていた金鷹団の団員たちも、全員が足を止めている。誰も後ろを見ない。見られないのだ。
十七階だけは、案内人がいちばん後ろを歩く。後ろを見られない階では、最後尾にいる者だけが、前の全員を見張れるからだ。筒はセンの足もとを抜けて、さらに下まで落ちていった。
階段の両側の壁には、黒い染みが並んでいる。どれも人の形をしていて、どれも顔だけが下を向いていた。この階で振り返った者たちだ。持ち物だけを段に落として、本人は壁の模様になった。
「坊主」
先頭から、ガレスの低い声がした。団長は前を向いたまま、背中で話している。
「あの筒には、一階から十七階までの地図が入ってる。俺が十年かけて描いたやつだ」
「知ってます。拾います」
「どうやって」
「後ろ向きに下ります。振り返るのは駄目でも、後ろへ歩くのは平気なんです」
センは顔を上に向けたまま、踵で段の縁を探った。筒が跳ねた音は七回だった。最後の一回だけ低かったから、踊り場の手前の広い段で止まったはずだ。
「一」
声に出して数え、体重を後ろへ移す。自分のための数ではない。上で息を詰めている全員に、今どこにいるかを聞かせるための数だった。
「二、三」
壁の染みが、視界の端を下から上へ流れていく。誰かが唾を飲む音がした。
「四、五、六」
トマがまた肩を揺らしかけ、ガレスに「動くな」と叱られている。叱った声のほうが震えていた。
「七」
踵に、硬くて丸いものが当たった。センは顔を正面に向けたまましゃがみ、後ろ手に探った。革の手触りと、切れた紐の端。
「ありました」
階段の上で、何人分もの息がいっぺんに抜けた。
センは七段を登り直し、筒をトマに渡した。トマは前を向いたまま、肩越しに受け取った。紐を結び直す指が、まだ震えている。
「悪い。俺、今、振り返るとこだった」
「振り返ってません。だから大丈夫です」
「お前の数は外れたことがないな」
ガレスが言った。前を向いたまま、少しだけ笑った声だった。
「跳ねた音で段を数えるやつがあるか」
「癖なんです。すみません」
「謝るところじゃない」
四百十二回目の案内だった。センは一度も、客をこの塔に残したことがない。
十八階から上は静かだった。トマは歩きながら大声で歩数を数え、ガレスはそれを聞きながら紙に線を引いていく。自分で描いた地図しか信じない人だった。
センは最後尾で、トマの踵を見て登った。赤い糸でかがった、継ぎだらけの踵だ。
「二百十一、二百十二。なあセン、お前の数は口の中でぶつぶつだよな」
「段しか数えません。トマさんのは歩数でしょう」
「俺のは団長に聞かせる数だ。聞こえなきゃ地図にならない」
二十二階では「靴紐を結び直すな」、二十六階では「水に映った顔を見るな」。センは階に入る前に掟を言い、金鷹団はその通りに歩いた。誰も欠けなかった。
二十八階の踊り場で、団員のベックが点呼を取った。端から指を差して、一、二、三と数えていく。休むたびに必ずやる、金鷹団の決まりだ。八まで数えると、ガレスが「よし」と返した。
水を回しているとき、トマが声をひそめた。
「なあ。お前、ほんとは三十一階に行きたいんだろ」
「どうしてですか」
「三十階に近づくと、毎回、扉ばっかり見てる」
センは水筒の栓を閉めた。下の町の酒場では、七年前に消えた案内人ジンが五十八階まで行った、と今でも噂されている。弟のセンがそれを聞かされた回数は、案内の回数より多い。
「兄さんが行った階を、見てみたいだけです」
「だったら団長に頼んでみろよ。俺も口添えしてやる」
トマは笑って、センの肩を叩いた。継ぎだらけの踵が、また一段ずつ登っていく。
三十階の階段を登りきると、狭い踊り場に出る。その先が三十一階の扉だ。鉄で縁取った落とし戸で、上には緑の灯りが一つ点いている。七年前から、この扉の向こうへ行って戻ってきた者はいない。
その扉にもたれて、女の子が眠っていた。
白い簡素な服に、裸足。灰色がかった長い髪が、膝の上まで流れている。年はセンと同じくらいに見えた。寝息は静かで、頬には血の色がある。
「生きてるぞ」
トマが言った。センは女の子の足の裏を見た。白くて、砂粒ひとつ付いていない。一階から三十階までを裸足で登ってきた足ではなかった。
「上から来たのか」とガレスが言い、すぐに首を振った。
「いや、ありえん。三十一階から戻った者はいない」
言いながら、ガレスは膝の上で紙を広げ、踊り場の四角に小さな丸を描き足した。女の子の寝ている場所だ。何が起きても、まず地図に描く人だった。
センはしゃがんで、女の子の首元を見た。細い紐の先に、銅の札が下がっている。案内人が首にかける札だ。センの胸にも同じものがある。
札には「案内人 ジン」と刻まれていた。名前のあとに、短い横線が三本、段々に並んでいる。階段の印だった。センが毎晩、案内帳の一頁目で見ている印だった。
指が震えて、札をうまくつかめなかった。
「坊主、ここまでだ」
顔を上げると、ガレスが革袋を差し出していた。受け取ると、ずしりと重い。三枚の重さではなかった。
「十枚ある。三年分の礼だ。その子を下の町まで連れて行ってくれ。それで終わりにする」
「僕も行きます。三十一階でも、人の動きは見られます」
「見てどうする」
ガレスは地図を丸め、紐で縛った。話はもう決まっている、という手つきだった。
「三十階までは、お前の頭に掟が全部入ってる。だから雇った。三十一階から先は、誰の頭にも入ってない。地図の無い階に、案内人は要らない」
「でも、この札は兄さんの」
ガレスの目が、女の子の首元へ動いた。顎に力が入るのが分かった。
「なら、なおさら連れて行けん」
団長は声を落とした。団員たちに聞かせたくない話なのだと、センには分かった。
「お前は剣を振れない。俺には団員が八人いて、その八人に家族がいる。何かあったら、俺は八人のほうを選ぶ。お前を置いていく場面を、俺は作りたくないんだ」
「僕は」
「四百十二回、お前は一度も客を残さなかった。その数を、地図の無い階で終わらせるな」
トマが一歩前に出た。
「団長、センも連れて行きましょうよ。こいつの目は、知らない階でも」
「トマ、棒を持て」
ガレスは振り向きもせずに言った。トマは口を開けたまま、センを見て、小さく首を振った。悪い、と唇だけで言った。
センは何も言えなかった。ガレスの言うことには、一つも間違いがなかった。
金鷹団の三人がかりで鉄の棒を差し込み、落とし戸を持ち上げる。隙間の向こうは薄暗くて、何も見えなかった。ガレスが最初にくぐり、団員が一人ずつ続く。
最後に、トマが振り向いた。ここは三十階の踊り場だから、振り向いてもいい。
「セン、また下でな。今度は一杯おごる」
落とし戸が下りた。重い音が、踊り場の石に響いて消えた。
センは革袋の口を開けた。銀貨を一枚ずつ指で送る。十枚あった。数えなくても重さで分かっていたのに、数えずにはいられなかった。
袋を閉じて、閉じた扉を見た。七年間、兄の後を追いかけたくて、四百十二回この塔を登った。そして三十階で、追い出された。
背中で、衣擦れの音がした。
女の子が目を開けていた。大きく伸びをして、あくびを一つして、センには目もくれずに扉を見上げる。扉の上の緑の灯りが、灰色の目に映っていた。
「上に帰らなきゃ。ジンが待ってる」




