第9話 火の番は、兄さんを知る人だった
センは穴の縁から顔を引っ込めて、階段の下へ声を掛けた。
「ガレスさん。皆と、もう少しそこにいてください。先に、僕とイルマで見てきます」
「灯りが緑のうちに戻れ」
「はい」
イルマが、センのすぐ後ろから穴を登ってきた。言われたとおり、センより前には出ない。三十三階の床に立つと、遠くの火をひとつずつ目で追っていた。
天井は暗がりに溶けて見えなかった。床は乾いた土で、黒い石があちこちに転がっている。小さな火は、さっきと同じ場所で、同じ大きさのまま揺れていた。
いちばん近い火まで、センは歩数を口の中で数えた。数えても、何も起きない。それだけで、足の運びが少し楽になった。
途中で、イルマがセンの袖を引いた。
「センくん、あれ。触る前に、呼んだよ」
土の上に、丸い灰の跡があった。灰はすっかり冷えていて、そのまわりに木の椀と、片方だけの手袋が落ちている。椀の底には、まだ乾ききらない汁の跡が残っていた。
「ありがとう。触らないでおこう」
センは灰の輪を見下ろした。食べかけの椀を置いて、どこかへ行く者はいない。遠くの暗がりでは、小さな灯りが一つ、火から火へゆっくり渡っていくのが見えた。
火のそばに、男が一人座っていた。赤い襟巻きを鼻まで巻いて、膝を抱えている。足もとの袋から黒い石を取り出して火にくべると、石は赤く色を変え、ゆっくり燃えはじめた。
「下から来たのか。火も持たずに」
男の目は真っ赤だった。瞼が落ちかけては、無理に持ち上がる。
「三十二階から来ました。僕は、案内」
名乗りかけて、喉が止まった。三十二階の床が、まだ足の裏に残っていた。
「案内人です。ここは、何という階ですか」
「知らん。おれは、上へ一緒に行くやつを待ってるだけだ。もう三晩、目を開けてる」
「眠らないんですか」
「眠れりゃ、苦労はない」
男はそう言って、また石を一つくべた。イルマが火の前にしゃがみこみ、両手をかざした。
「あったかい。センくん、ここ、あったかいね」
男が、何か言いかけた。その口が開いたまま、頭が前にかくりと落ちた。膝を抱えた腕がほどけて、寝息が聞こえはじめた。
センは男の寝顔を見て、それから火を見た。黒い石はもう白い灰に変わりかけていた。炎が、目に見えて低くなっていく。
「センくん、火、ちっちゃくなってるよ。その石、足していい?」
イルマが男の袋を指さした。センは手を上げて止めた。
「待って。この人の物だ。掟が分かるまで、人の物には触らない」
「わかった。触らない」
「起こすから」
センは男の肩へ手を伸ばした。指が襟巻きに届く寸前、最後の炎が、ふっと沈んだ。
赤い襟巻きが、男の座っていた土の上に落ちた。膝を抱える腕も、真っ赤な目も、どこにもなかった。黒い石の袋だけが、灰の横に残っている。
背中のほうが明るくなった。振り返ると、穴の縁の灯りが赤く染まっていた。階段の下では、ガレスがあの赤を見上げて、団員の顔を確かめているはずだった。
センは動かなかった。動けば何かを破りそうで、目だけを動かした。
火も持たずに、と男は言った。この階では、火の無い者が危ないのだ。火が消えれば、そばにいる者から残される。だとしたら、次は火の前にしゃがんでいるイルマだった。
灰の底に、赤い粒がひとつだけ残っていた。センは袋から黒い石をつかみ出し、その粒に押し当てて息を吹きかけた。石の角に、小さな炎が移った。
「イルマ、こっちへ。火のそばにいて」
返事がなかった。イルマはしゃがんだまま、土の上の襟巻きを見ていた。
「センくん。この人、火、持ってたよね」
「うん。だから」
「持ってたのに、いなくなったよ。あたしとセンくんは、持ってないのに、いるよ」
センの手の中で、石が熱くなった。炎は指の幅ほどしかなく、揺れるたびに細くなっていく。
息が止まった。今、この階で火を持っているのは、センだった。
「石、足す?」
イルマが袋を指さした。センは首を振ることもできなかった。足せば、この火はもっと長くセンのものになる。足さなければ、消える。
暗がりから、足音が駆けてきた。白いひげの老人が、長い棒を肩に担いで走ってくる。棒の先には、火の入った鉄の壺が下がっていた。
「その石を、壺に入れい! 早う!」
センは燃える石を壺の口へ放り込んだ。小さな炎は壺の火に呑まれて、ひとつになった。
膝から力が抜けた。
「火をつけた者が、その火の持ち主になる。持ち主が火を絶やせば、残される」
老人は灰を見下ろして、長く息を吐いた。
「あっちは、また間に合わなんだか。お前さんのほうは、間に合うたな」
イルマが赤い襟巻きを拾い、土を払って、丁寧に畳んだ。それから灰の横に、そっと置いた。
「戻ってきたとき、寒くないように」
壺から火の粉を落とすと、灰の上に新しい火が立った。老人はその前にどっかりと座った。胸に、案内人の銅の札が下がっている。字はすり減って、もう読めなかった。
「わしの火だ。当たっていけ。わしの火に当たる者は、残されん。上へ行く者は、みなここで眠っていく。わしが火の番をしてやってな」
だから、火がいくつも灯っているのだ。この階は、塔の中の宿場だった。
イルマが、襟巻きの横の袋を指さした。赤い襟巻きの男が残していった、黒い石の袋だった。
「センくん。あの人の石、おじいさんの火に足してきていい?」
センは老人を見た。老人は遠くの火に目をやって、うなずいた。
「わしの火に、くべるだけなら構わん。頼む」
「いいよ。くべたら、すぐ戻ってきて」
イルマは袋をつかんで、暗がりへ駆けていった。
「あなたは」
「ギド。案内人だ。四十年この塔を登って、ここで火を守って二十年になる」
センは息をのんだ。
「下の町では、三十一階から上で、生きて戻った人はいないと言われています」
「戻れんのではない。戻らなんだだけだ」
「どうしてですか」
「わけは、噂の値段だ」
ギドは懐から、分厚い帳面を出した。革の表紙が、火に焼けて黒ずんでいる。
「噂は一晩に一つ。値は、上の話を一つ。三十二階の掟を知っとるなら、それで売ってやる」
「名乗るな、です。自分の名前を口にした者が残されます」
ギドの筆が、帳面の上を走った。黒い墨で、「三十二 名乗るな」と書く。
「よし。何が聞きたい」
「ジンという案内人を知りませんか。背が高くて、右の眉に傷がある」
筆が止まった。ギドは顔を上げて、センの顔をしばらく眺めた。
「弟か。目の動かし方が、そっくりだ」
「はい」
「七年前だ。あいつはこの火で、松明に火を移していった。五十八階から降りてくる、と言うてな」
センの指先が、胸の案内帳に触れた。兄さんは、ここに座った。この火の前に。
七年間、下の酒場で聞かされてきたどの噂よりも、それは近かった。噂の中の兄は、いつも五十八階にいた。ここにいた兄は、松明を手に、この老人と口をきいていた。
「それから、どうなったんですか」
「続きは、また別の晩だ」
センは唇を噛んで、懐から紙の切れ端を出した。茶色の墨で、「三十二」の横に「名」。
「灰色の外套の男が、これを持っていました。ここを通りませんでしたか」
「わしの火には寄らずに、上へ行った。足の悪い連れを、一人だけ連れてな」
ギドは切れ端を火にかざし、目を細めた。
「煤に錆を溶いた墨じゃ。わしらの若い頃の案内人が、こういう墨を使うた。今どき、こんなもんで書く者はおらん」
「じゃあ、これを書いたのは」
「噂は一晩に一つと、言うたろう」
ギドは切れ端をセンに返した。そのとき、イルマが空になった袋を振りながら戻ってきた。
「おじいさん、あっちの火に、あの人の石、全部足してきたよ。ちゃんとセンくんに聞いてからね」
火の明かりが、イルマの灰色の髪と顔を照らした。
ギドの手から、筆が落ちた。黒い墨が帳面に散って、ギドはそれを拭おうともしなかった。ひげの下の顔から、みるみる血の気が引いていく。
【三十三階の掟】火を絶やすな




