第九十七話「照合します」
照合実行には、二人の同意が必要だった。
画面に、同意確認が表示された。
森本遼:照合に同意しますか。
俺は、すぐには押さなかった。
隣で、川瀬さんも押していなかった。
誰も急かさなかった。鶴田も、課長も、桐生も。部屋の空調音だけが、妙にはっきり聞こえた。
◇
「折衝さん」
川瀬さんが言った。
「はい」
「もし100%だったら、明日も来ますか」
「行きます」
「もし100%じゃなかったら」
「行きます」
「業務で?」
「業務じゃなくても」
彼女は、少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、押せます」
川瀬さんの指が、画面に触れた。
川瀬奈緒:同意。
◇
俺の画面には、まだ確認が残っていた。
胸ポケットのスタンプに、触れた。
312件、一度も押せなかったスタンプ。川瀬案件でも、何度も取り出して、何度もしまった。
押せなかった理由を、今なら言える気がした。
終わっていなかったからだ。
俺が終わらせたくなかったからだ。
それを、制度ではなく、自分の言葉として認めるために、俺はここに来た。
◇
同意ボタンを押す前、俺は川瀬さんの横顔を見た。初めて会った日の扉の向こうの顔を思い出した。呆れたような目。二人分のコーヒー。折衝さん、と呼ぶ声。
半年で、人の顔はこんなに違って見えるのかと思った。変わったのは彼女の顔ではない。見る側の俺だ。最初は対象者として見ていた。次に、11%に逆らう人として見た。今は、隣で同じボタンを押そうとしている人として見ている。
鶴田が言った。
「五秒後、何かが出ます」
「何か、ですか」
「はい。数字か、ERRORか、拒否か。どれでも、何かです」
川瀬さんが小さく言った。
「何も出ないより、ましですね」
その強さに、最後の迷いが少しだけ消えた。
同意ボタンの上で、指が止まった。
押すことは、知ることだ。知ることは、戻れなくなることだ。これまで俺は、押せないスタンプを持っていた。今日は、押せるボタンを前にして止まっている。
押せないのではない。
押したあとも、彼女の前に立っていられるかを、確かめていた。
隣で川瀬さんが、静かに待っていた。待つことに慣れている人の待ち方だった。三年待った人が、俺の数秒を急かさずに待っていた。
「私は三年、田村さんを待ちました」と、川瀬さんが小さく言った。「あれは、待っていたというより、動けなかっただけです。でも今は、ちゃんと待っています。あなたが押すのを」
「違うんですか」
「違います。動けない待ち方と、信じて待つ待ち方は、別物です」
その区別を、彼女は三年かけて知った。俺は、今この数秒で教わっていた。
「照合します」
俺は言った。
鶴田が頷いた。
課長が目を閉じた。
桐生が記録端末を構えた。
川瀬さんが、俺を見ていた。
指を、ボタンに戻した。今度は、止まらなかった。三年と数秒の待ち時間が、ここで終わった。
俺は同意ボタンを押した。
森本遼:同意。
鶴田の指が、実行ボタンに触れた。
画面が白くなった。
五秒。
長かった。
たぶん、俺の人生で一番長い五秒だった。
次話「その数字を、二人で見た」




