第九十六話「147通りの紙」
照合の直前、鶴田は紙の束を机に置いた。
「これは何ですか」
「147通りの結果分岐です」
「今、必要ですか」
「必要ではありません。ですが、私が落ち着きます」
川瀬さんが、思わず少し笑った。
緊張で固まっていた空気が、ほんの少しだけほどけた。
◇
紙には、細かい文字が並んでいた。
100%だった場合。99.9%だった場合。ERROR継続の場合。照合不能の場合。12%のままだった場合。片側だけERRORの場合。双方のデータが消える場合。
「最後のは何ですか」
「可能性は低いですが、PAIRが照合そのものを拒否した場合、ログが欠落する可能性があります」
「そんなことが」
「ありません」
「ないんですか」
「ないはずです。ですが、今回の案件は、ないはずのことが続いています」
鶴田の言葉に、誰も反論できなかった。
◇
桐生が紙束を見て、眉をひそめた。
「保守課としては、結果を事前に誘導していないと証明できますか」
「できます」
「根拠は」
「私は、結果を誘導するより、結果が出る瞬間を見る方が好きです」
「それは根拠ではありません」
「性格証明です」
課長が咳払いをした。
川瀬さんが、また少し笑った。
この場で笑い声が出たことを、俺は覚えておくことにした。
◇
鶴田は紙束の一枚を、俺に渡した。
「森本さんには、これを」
そこには、こう書かれていた。
結果にかかわらず、本人の意思確認を最優先する。
「それ、手順書にあるんですか」
「ありません。私が書きました」
「なぜ」
「恋管の手順書は、こういうとき役に立たないので」
俺は紙を受け取った。
たしかに、その通りだった。
◇
鶴田が椅子に座った。
「では、本当に始めます」
そのとき、桐生の端末が短く鳴った。
桐生は画面を見て、動きを止めた。
「本部から、勧告です。本件の照合について、一時中止を勧告する——と」
部屋の空気が、固まった。川瀬さんが俺を見た。鶴田の指が、止まった。
桐生は画面を下へ送った。
「差出人は、本部監査部。榊、とあります」
さかき、と桐生は読んだ。課長の机で裏返された紙の名前だった。押した回数で人を測る人、と鶴田が言った名前だった。
課長は、桐生の画面を見なかった。名前を聞き返しもしなかった。
「勧告か。命令か」と課長が言った。
「勧告です」
「なら、続行する。職権だ」
課長は、桐生の記録端末を指した。
「記録しろ。責任の欄には、俺の名前を書け」
桐生は数秒、課長を見ていた。それから、記録した。
短い沈黙があった。誰も、勧告の続きを聞かなかった。鶴田が紙束の角を、一度だけ手で揃えた。それから、画面へ向き直った。
画面の中央に、照合実行のボタンが表示された。
赤でも青でもない、ただの白いボタンだった。
だから余計に、目が離せなかった。
紙束の端に、鶴田の手書きが混じっていた。普段はすべて端末で処理する男が、そこだけ手で書いている。
「なぜ手書きなんですか」
「印刷すると、手順に見えるので」
「手順ではないんですか」
「違います。迷ったときに見るためのメモです」
鶴田にも、迷うことがある。その事実だけで、照合室の温度が少し変わった気がした。
川瀬さんが紙を一枚めくった。
「ここ、何ですか。『結果が何であっても、コーヒーを飲ませる』」
「私的メモです」
「鶴田さんの?」
「いえ。森本さん向けです」
課長がまた咳払いをした。桐生の指が記録端末の上で止まり、結局、動かなかった。
俺は、その一文を見て、照合室に来てから初めて少し肩の力が抜けた。結果より先に、帰る場所のことを書いた紙が、147通りの中に一枚だけ混じっていた。
俺はその紙を、スタンプと同じ胸ポケットにしまった。終わらせるための道具と、終わったあとにコーヒーを飲ませるためのメモが、同じポケットに並んだ。
鶴田が、白いボタンに指を近づけた。
「カウントは、しません」と鶴田は言った。「数えると、緊張するので」
数の男が、数えないと言った。その一言で、俺は息を吸った。
次話「照合します」




