第九十四話「課長が待っていた」
照合当日の朝、課長は折衝課の入口に立っていた。
いつもなら課長室にいる。モニターの前で、無表情に数字を見ている。それなのに今日は、窓のない廊下で、俺を待っていた。
「森本」
「はい」
「最後に確認する。やめるなら、今だ」
俺は立ち止まった。
「承認したのは課長です」
「承認した。だから確認している。承認は命令じゃない。お前がやめるなら、俺は止めない」
課長の声は、いつもより低かった。
◇
「20年前、俺はこの確認を誰にもされなかった」
課長は、廊下の奥を見た。
「照合するか、しないか。逃げるか、残るか。全部、自分一人で決めたつもりだった。だが本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない」
「今でも、後悔していますか」
「後悔の形は、変わる。若い頃は、相手を失ったことを後悔した。今は、自分で選んだことにしなかったのを、後悔している」
「自分で選んだことにしなかった?」
「100%が怖くて逃げたのに、『制度のためだった』と名前を変えた。そうすると、後悔が仕事になる。仕事になった後悔は、長いぞ」
俺は、胸ポケットに手を当てた。
◇
「俺は、照合します」
「なぜだ」
「100%を信じたいからではありません。数字に決められたくないから、数字が何を隠していたのか知りたいんです」
課長は黙って俺を見た。
「それと」
言うべきか、一瞬迷った。
「川瀬さんに、数字より先に答えたので」
課長の目が少しだけ細くなった。
「なら行け」
「はい」
「森本」
呼び止められた。
「100%が出たら、浮かれるな。100%が出なくても、折れるな」
「……はい」
「どちらでも、帰ってこい。折衝課に。まだ、お前の席はある」
その言葉が、思ったより重かった。
課長は、そこで一度だけ俺の胸ポケットを見た。
「そのスタンプ、今日も持っていくのか」
「はい」
「照合には不要だ」
「わかっています」
「なら、なぜ持っていく」
答えは、すぐには出なかった。だが、置いていくこともできなかった。あれは終わらせるための道具だった。終わらせないと決める日にこそ、持っていなければいけない気がした。
「……押さないために」
自分でも、変な答えだと思った。
課長は、少しだけ笑った。笑ったというより、息が漏れた。
「そうか。押すためじゃなく、押さないために持っていくのか」
「はい」
「なら、なくすな」
それだけ言って、課長は廊下の奥へ歩いた。背中が、いつもより少し小さく見えた。
課長室には、古い紙の匂いがした。
設立記録のファイルは、今日も机の端にあった。しまわれていない。隠すのをやめた、というより、もう隠しきれなくなったように見えた。
課長はファイルに手を置いたまま、俺を見た。
「今日、数字が出ても、お前の人生を数字に預けるな」
その言葉は、命令ではなかった。二十年前の自分に言いそびれたことを、俺に言っているようだった。
俺は、はいともいいえとも言わなかった。ただその言葉を持って照合室へ向かうことにした。預けないという約束だけを胸ポケットのスタンプの隣に入れて。
次話「全員が揃った」




