第九十二話「いつも通りの三日間」
照合は、すぐには行われなかった。
鶴田の準備に、三日かかった。
「三日ですか」
「はい。照合自体は五秒で終わります。ただし、その五秒の前に、五秒を壊さない準備が必要です」
鶴田はいつも通り、わかるようでわからない説明をした。
「具体的には」
「森本さんと川瀬奈緒さんの行動ログ、感情波形、接触履歴、介入記録、非公式接触、端末異常、ERROR発生時刻の同期を取ります」
「非公式接触」
「傘です」
「……記録されてるんですか」
「雨の日は、意外とデータが増えます」
鶴田は真顔だった。
◇
三日間、俺はいつも通り出勤した。
いつも通り、案件を確認した。いつも通り、終了処理のチェックをした。いつも通り、胸ポケットにスタンプを入れていた。
違ったのは、川瀬案件の欄が空白になっていたことだ。
進行中でも、終了でもない。
照合待ち。
恋管のシステムに、そんな分類は存在しない。鶴田が仮ラベルを作ったのだろう。分類名の横に、小さくこう書かれていた。
計算中
◇
三日間で、折衝課の空気も変わった。誰も川瀬案件の名前を口にしないのに、全員がその存在を知っている。窓のない部屋の中で、低い声だけが行き交った。
スタンプ欄の空白を、同僚の一人がちらりと見た。何も言わなかった。言わないまま、別の案件のファイルを閉じた。その沈黙が、噂よりはっきりしていた。俺が何かを選ぼうとしていることを、周囲も気づき始めている。
二日目の夜、課長からも短いメッセージが来た。
「寝ろ」
命令文だった。
少し笑った。寝られるなら、とっくに寝ている。だが課長がその二文字を送ってきたこと自体が、いつもの督促とは違っていた。逃げるなと言った人間が、寝ろとも言う。明日を迎えるには、眠る必要がある。そんな当たり前のことまで、誰かに言われないとできなくなっていた。
三日間、何も起きないことが、逆に不自然だった。
俺は毎朝、自分のPAIRデータを開いた。ERROR。いつも通り。川瀬さんは毎朝、コーヒーを淹れた。いつも通り。鶴田は毎日、問題ありません、と言った。いつも通り。
ただ、いつも通りのものが、全部、照合室へ向かう前置きに変わっていた。変わっていないふりをしているだけで、全部が少しずつ傾いていた。
三日目の朝、すれ違った課長が、何も言わずに俺の肩を一度だけ叩いた。励ましでも、督促でもなかった。ただ、明日があることを確認するような手だった。窓のない部屋では言葉より、そういう一瞬の方がよく伝わる。肩に残った手の重さだけが、三日間で唯一、はっきりした出来事だった。
◇
三日目の夜、川瀬さんからメッセージが来た。
「今日のコーヒーは、少し薄いです」
俺は画面を見た。
行っていない。今日は訪問日ではない。業務予定にもない。
「なぜ、報告を」
送信してから、すぐ既読がついた。
「来ない日にも、あなたの分を淹れたので」
端末を置いた。
その一文だけで、照合より先に、何かが確定してしまった気がした。
次話「鶴田が、自分のデータを取る」




