第九十一話「承認の出た、夜」
承認の出た夜、俺は川瀬さんの部屋にいた。
川瀬奈緒——書類の四文字で頭の中まで呼んでいたのは、いつまでだったか。今はもう、川瀬さん、としか出てこない。
業務上の訪問記録は、まだ残っている。承認も出ている。鶴田が照合環境を準備している。課長も、逃げるなと言った。
それでも、今日だけは何の手順書も持ってこなかった。
「コーヒー、今日は普通にしました」
テーブルには二人分のカップが置かれていた。濃くもなく、薄くもない。初めてここに来た日の味を、俺は覚えていない。だが今日の味は、覚えておくことになると思った。
「普通、ですか」
「もうすぐ、数字が出るので。今日くらいは、数字じゃないものにしたくて」
川瀬さんはそう言って、カップを両手で包んだ。
◇
「怖いですか」
聞いたのは、俺だった。
「怖いです」
即答だった。
「100%じゃなかったら、ですか」
「いいえ。100%だったら、です」
俺は、黙った。
「11%のときは、反論できたんです。11%は0%じゃないって。低い数字に、私は逆らえた。でも100%って出たら、逆らえない気がする。うれしいのに、少し怖いです」
「数字に、命令されるみたいだから」
「はい」
同じだった。俺も、同じことを怖がっていた。
◇
「当日、100%が出ても」
川瀬さんが言った。
「私は、あなたを好きになる理由を、数字には渡したくないです」
胸ポケットのスタンプが、急に重くなった。
「川瀬さん」
「だから、どんな数字が出ても、先に言っておきます」
彼女は少しだけ笑った。
「また来てください。業務じゃなくても」
俺は、答えるまでに少し時間がかかった。
「行きます」
帰る前、川瀬さんはカップを洗わなかった。いつもなら、俺が立ち上がるころには二つのカップを下げている。今日は、テーブルの上に置いたままだった。
「照合の日、帰ってきたら洗います」
「帰ってきたら」
「はい。どんな数字でも、帰ってくる前提で」
その言い方が、妙に心に残った。照合はどこかへ行くことではない。数字を見に行って、それでも日常に帰ってくることだ。帰ってきた後に洗うカップがある。それだけで、明日の重さが少し違って見えた。
玄関で靴を履くと、川瀬さんが言った。
「折衝さん。当日、緊張しても、いつもの顔で来てください」
「いつもの顔が、わかりません」
「答えられないときの顔です」
「それは、いい顔なんですか」
「最近は、少し」
扉が閉まったあと、俺はしばらく廊下に立っていた。
書類には、何も書かなかった。所見も残さなかった。データにも、手帳にも、残さなかった。
ただ帰り道で、初めて思った。
数字より先に、俺はもう答えている。
その夜、眠れなかった。
照合を決めたあとも、端末の予定表には何も増えていない。恋管の予定表は、通常の業務だけを記録する。三日後の照合は、通常ではない。だから空白のままだった。
空白のまま、その日が来る。
そのことが、いちばん怖かった。書かれていない予定ほど、逃げ場がない。
それでも、洗っていないカップが二つ、あの部屋のテーブルに残っている。帰る場所があると思えば、空白の三日も、少しだけ短く見えた。
次話「いつも通りの三日間」




