第八十九話「俺は、照合します」
川瀬奈緒の部屋に上がった。年度末まで、あとわずかだった。課長の承認は、まだ出ていなかった。
◇
「もし課長の承認が出なかったら」と川瀬奈緒が言った。
「照合はできません。1年、待つことになります。次の監査まで」
「1年待っても、答えは変わらないんですよね」
「変わりません。100%は、100%のまま。12%は——わかりません。動き続けるかもしれません。俺が、来続けたら」
川瀬奈緒は、少し笑った。
「じゃあ1年後には、もっと上がってるかもしれませんね」
「かもしれません」
「13%とか、14%とか」
「ゆっくりですが」
「ゆっくりで、いいです」と川瀬奈緒は言った。「3年かけて田村さんを諦めたので。ゆっくりは、慣れています」
◇
「折衝さん。私、決めました。照合できなくても、いいです」
俺は川瀬奈緒を見た。
「いい、というのは」
「照合して答えが出ても出なくても——折衝さんが来てくれるなら、それでいいです。答えが100%でも違っても。確かめても、確かめなくても。折衝さんが来てくれるなら、私はそれでいいんです」
確かめなくても、いい。前に川瀬奈緒が言った。「確かめなくてもそこにあるなら、縁」。雪の積もったブランコの話だ。あのとき言ったことを、彼女は本気で、生き方にしていた。
◇
俺は少しの間、何も言わなかった。それから、言った。
「俺は、照合します」
川瀬奈緒が、俺を見た。
「照合する、んですか」
「はい。川瀬さんが確かめなくてもいいと言ってくれて——だから、俺は確かめたくなりました」
「なぜですか」
「川瀬さんが確かめなくても俺を受け入れてくれるなら。俺はちゃんと答えを持って、川瀬さんの前に立ちたい。わからないまま来るんじゃなくて。100%だと知った上で、来たい。確かめなくていいと言われたから、こそ、ちゃんと確かめて、自分の足で立ちたくなりました」
川瀬奈緒は、長い間俺を見ていた。目が少し、潤んでいた。
「それ、ずるいです」
「すみません」
「謝らないでください」
いつものやりとりだった。ただ今日は、意味が違った。これまでの「ずるい」は、踏み込まれた者の「ずるい」だった。今日の「ずるい」は、受け取った者の「ずるい」だった。
◇
今日はスタンプを取り出した。書類は、なかった。ただ手に持って、見た。
俺は、照合する。答えを持って、川瀬奈緒の前に立つ。川瀬奈緒は「確かめられなくてもいい」と言った。だからこそ、ちゃんと答えを持って、前に立ちたかった。このスタンプを押せる日が来るとしたら、それは答えを知った後だ。終わりの判ではなく、始まりの判として、いつか押せるかもしれない。
しまった。確かめなくてもいいと言われて、初めて確かめたくなった。折られても諦めなかった彼女と、確かめなくていいと言われて確かめたくなった俺は、たぶん同じ場所にいた。手放してくれた相手にこそ、手を伸ばしたくなる。理屈ではなかった。ただ、そういうものだった。
次話「課長が、答えを出す日」




