第八十八話「課長と、奈緒」
数日後、川瀬奈緒が恋管に来た。課長に会うためだった。
俺は同席を申し出た。川瀬奈緒は「一人で、会います」と言った。「これは、私からのお願いなので。私の言葉で、言いたいんです」と。
◇
面談は、待合室の隣の小部屋で行われることになった。いつか川瀬奈緒がERROR画面を見た、あの待合室の隣だった。外に向く窓はない。ただ、待合室側の仕切りの上半分がガラスになっていて、中の様子だけは見える。俺は待合室の椅子に座った。同席はしない。ただ、ここで待つ。それだけは、譲らなかった。反対側のガラスの向こうには、保守課のフロアが見えた。今日は監査の週ではないので、フロアは静かだった。鶴田の席にも、誰もいなかった。
課長が先に入った。扉を閉めかけて、手を止めた。半開きのまま、残した。閉め忘れる男ではない。俺に聞かせるつもりなのか、聞こえても構わないと思ったのか。どちらかは、わからなかった。
川瀬奈緒が入って、頭を下げた。ガラス越しに、まっすぐな背中が見えた。
◇
「照合を、お願いします。私の縁が折衝さんと関係あるのか、知りたいんです」
声は、半開きの扉から届いた。震えていなかった。
課長はすぐには答えなかった。ガラスの向こうで、腕を組むのが見えた。
「お前は答えが怖くないのか」
「怖いです」
即答だった。
「でも、知りたいんです」
「知って、どうする」
「知ってから考えます」
課長の肩が、わずかに動いた。笑ったのか、息を吐いただけなのか。ガラス越しでは、わからなかった。
◇
そこから、声が落ちた。
課長が何か言った。低すぎて、聞こえなかった。川瀬奈緒が答えた。それも、聞こえなかった。応酬が数秒、扉の手前で消えた。俺は椅子の上で、手を組んだ。聞こえない数秒の方が、長かった。待つのは仕事で慣れたはずだった。今日は、うまくできなかった。
声が、戻った。課長の声だった。
「お前たちは似ているな」
お前たち。俺と、川瀬奈緒のことだ。
「二人とも答えが怖いのに、知りたがる」
川瀬奈緒は言い返さなかった。ガラスの向こうで、小さく頷くのが見えた。否定できないのは、待合室の俺も同じだった。二人の本質を、課長は短い面談で言い当てていた。言い当てられるのは、課長自身が、かつて答えが怖くて知りたかった人間だからかもしれなかった。
◇
沈黙があった。長かった。
それから、椅子を引く音がした。課長が立ち上がるのが見えた。窓のない小部屋で、課長は一度だけ、川瀬奈緒ではない方を向いた。
「20年前の自分に、会っているようだ」
独り言に近い声量だった。半開きの扉がなければ、届かなかった。川瀬奈緒には、意味がわからなかったはずだ。俺には、わかった。課長は20年前、照合の前で戻った。あのとき確かめていたら、どうなっていたか。課長は俺たちの中に、選ばなかった方の自分の人生を見ている。
「考えておく」
最後に、それだけ聞こえた。最初の「怖くないのか」と、同じ声ではなかった。
◇
川瀬奈緒が出てきた。
「聞こえていましたか」と、先に言われた。
「半分だけ」
「じゃあ、半分だけ補足します」
帰り道、川瀬奈緒は短く話した。声が落ちて聞こえなかったあの数秒、課長は「1年待てるか」と聞いたという。監査領域が閉じれば、次は1年後になる。川瀬奈緒は「待てます。でも、待ちたくないです」と答えたと言った。
「それと、課長さん、寂しそうでした」と川瀬奈緒は言った。「怒ってもいなくて、困ってもいなくて。羨ましそう、にも見えました。私たちがこれから確かめようとしていることを」
◇
寂しそうで、羨ましそう。入っていくときの課長は、絶対に却下するという顔だった。出てきた言葉は「考えておく」だった。20年動かなかったものが、答えが怖いのに知りたがる二人を前に、動き始めていた。所見欄には書けないことを、一つだけ覚えておくことにした。あの「考えておく」は、半分開いた扉の向こうで言われた、ということを。
次話「俺は、照合します」




