第八十七話「あと、30日」
鶴田が、デスクに来た。
「年度末まで、あと30日です。監査領域が、閉じるまで。課長の承認は、まだですね」
「まだです。今日もう一度、課長に話します」
「30日を過ぎると、照合は1年先になります。監査領域は、年に一度しか開きません」
30日。あと30日で、扉が閉まる。閉まれば、1年。1年待てば、川瀬奈緒のスコアはまた動くかもしれない。俺の100%は変わらない。確かめられないまま、また1年、二つの空欄が近くにあり続ける。
◇
課長室に行った。課長はいつものように、モニターに向かっていた。
「課長。照合の承認を、お願いします」
課長は、振り返らなかった。
「却下する」
「理由を、教えてください」
「照合は、するな。あれは、開けてはいけない」
開けてはいけない。2048年のERRORも、課長だけが開ける領域にあった。同じ「開けてはいけない」が、二つ、課長の中にあった。
「課長。2048年にERRORが、1件出ていましたね」
課長の手が、止まった。キーボードの上で、指が、固まった。
「どこで、それを」
「設立記録です。あなたの『調べるな』を無視して、調べました」
課長はゆっくりと、振り返った。椅子が、軋んだ。
◇
「お前、どこまで調べた」
「2048年に算出不能ケースが1件。課長の承認領域にあり、開けない。それだけです。中身はわかりません。ただ——課長が、隠している」
課長は少しの間、俺を見ていた。値踏みするような目だった。俺がどこまで知っているかを測る目だった。
「お前はなぜ、そこまでする」
「川瀬奈緒の縁を、確かめたいからです」
「川瀬奈緒の縁が、お前と関係あるのか」
「……あるかもしれません。照合すれば、わかります」
課長は、椅子に深く座った。背もたれが、また軋んだ。
◇
「森本。お前、自分が何を開けようとしているか、わかっているか」
「わかりません。だから、開けたいんです」
「開けたら、戻れないぞ」
「戻る、というのは」
「折衝課の職員には戻れない。お前は対象者と100%になった職員になる。それは制度の外側だ」
制度の、外側。折衝課の職員でも対象者でもない場所。どこにも分類されない場所。
「課長は」と俺は言った。「20年前、その場所に行きそうになって——戻ったんですか」
課長の顔が、変わった。値踏みする目が、消えた。代わりに、何かを見透かされた人間の、無防備な顔が出た。
◇
「誰から、聞いた」
「誰からも、聞いていません。今、課長の顔を見て、そう思いました」
課長は、長い間何も言わなかった。窓に背を向けた部屋で、課長の呼吸の音だけが、聞こえた。
「今日は、帰れ」と課長が言った。「承認は、しない。ただ——少し、考える」
「考える?」
「帰れ」
俺は、課長室を出た。
◇
却下されたのに、追い返されたのに、手応えがあった。「考える」と課長は言った。20年隠してきたものを、初めて「考える」と言った。「するな」「調べるな」しか言わなかった人間が、初めて揺れた。揺れたということは、固まっていたものが動き始めたということだった。所見欄に一行だけ書いた。
「課長が、考えると言った。」
次話「課長と、奈緒」




