第八十三話「課長の心拍データ」
鶴田が、デスクに来た。今日はいつもより、そわそわしていた。端末を持つ手が、落ち着かなかった。
「森本さん。一つ報告があります。ただこれは言うべきか、計算中だったのですが。課長の心拍データを見ました」
「課長の?」
「恋管の職員は全員、PAIRに生体データを提供しています。課長も含めて。私は保守の権限で、それを見られます」
「見ていいんですか、それ」
「業務上、必要なら。今回は——必要だと判断しました。判断で動くのは、年に数回ですが。今月は、それが多いです」
◇
「それで、課長の心拍がどうしたんですか」
「森本さんがPAIRの異常を報告した日。あの時刻です。課長の心拍が、急上昇しました。平常時の1.6倍です。森本さんが『お前のスコアはどうなっている』と聞かれて『ERROR』と答えた、その瞬間に最大値を記録しています」
俺がERRORと答えた瞬間に、課長の心拍が最大に。
「鶴田さん。それは、つまり——」
「課長は森本さんのERRORに強く反応しています。データ上は」
鶴田は、自分の胸ポケットの機器に手をやった。いつもの仕草だった。自分の心拍を測る、あの機器に。
「私は、自分の心拍をいつも測っています。自分の感情がわからないから、せめて数値だけは持っておきたくて。今日、課長の心拍を見て、思いました。課長も、たぶん、自分の心拍を測ったことがない人です。測っていたら——あの日の1.6倍に、自分で気づいていたはずなので」
◇
「鶴田さん。あなた、課長の感情は計算できないって、いつも言いますよね。でも心拍は見るんですね」
「心拍は、データです。感情は、データの解釈です。私はデータは見ますが、解釈はしません」
「では課長の心拍が1.6倍になったのを、どう解釈するんですか」
「解釈しません。ただ事実として——課長は森本さんのERRORに反応しています。怒りか、恐れか、後悔か、別の何かか。それはわかりません。ただ一つ言えるのは——課長は森本さんのERRORを、ただのデータとしては見ていません。心拍が、それを証明しています。データは、嘘をつきません。顔は、つくれます。心拍は、つくれません」
◇
俺は、少し笑ってしまった。
「鶴田さん。あなた結局、課長も何か隠してるって言いたいんですよね」
「……はい。そう言いたいです。でもそれは解釈なので、言いませんでした」
「今、言いましたよ」
「……言ってしまいました。計算違いです」
鶴田は、めずらしく動揺した顔をした。それから、もう一度、胸ポケットの機器を見た。今、自分の心拍も上がっているのかどうかを、確かめるように。
「私も、今、平常時より上がっているかもしれません。確かめます」
「鶴田さんも、隠したいことがあるんですか」
「それは、計算中です」
鶴田は少し慌てた様子で、保守課に戻っていった。データしか見ないと言い張る男がつい解釈を漏らすほど、課長の心拍は、はっきり何かを語っていた。顔ではなく、心拍が。つくれないものだけが、本当のことを、語っていた。
次話「課長の調べるなを無視する」




