第八話「傘を、借りた日」
傘を忘れた日に限って、雨が降る。
翌週、川瀬奈緒の部屋に向かう途中だった。
例の小学校跡地の前で、手ぶらなことに気づいた。資材置き場のフェンス越しに、誰も使わない校庭が見えた。鉄棒が一本、雨に濡れて黒く光っていた。
ここで誰かが逆上がりをしていた頃は、出生率はまだ1を超えていたはずだ。
濡れたまま、インターホンを押した。
「……また来たんですか。濡れてますよ」
「降ってきたので」
「タオル、使いますか」
「いえ、大丈夫です」
「使ってください。風邪ひかれると、私が折衝さんを濡らした人になるので」
断る理由が、なくなった。
タオルは、柔軟剤の匂いがした。
生活の匂いだった。
◇
部屋に上がった。
今日のコーヒーは、いつもより少し熱かった。
濡れて来たからかもしれない、と思った。聞かなかった。
「田村さんの件ですが」と俺は言った。
「終了処理ですか」
「はい。推奨されています」
「推奨、なんですね」
「命令ではありません」
「折衝さんは、出したいですか」
雨の音が、窓に当たっていた。
手順書にある返答は、いくつか思い浮かんだ。
どれも、声にはならなかった。
「今日は、その質問には答えられません」
「そう言うと思いました」
「わかるんですか」
「少しだけ」
川瀬奈緒はカップを両手で包んだ。
「折衝さんって、嘘はつかないんですね」
「つけないだけです」
「同じことじゃないですか」
「違うと思います」
「どう違うんですか」
「つかないのは、選んでいます。つけないのは、選べていません。俺は、後の方です」
川瀬奈緒は「正直な人ですね」とは言わなかった。
ただ、少しだけ目元がやわらいだ。
◇
「採用の仕事をしていたって、言ってましたよね」と川瀬奈緒が言った。
「はい」
「人を選ぶ仕事から、人の縁を折る仕事に来たんですね。似てますか、その二つ」
三秒。
「採用は、可能性を拾う仕事です。折衝課は——可能性を、折る仕事です」
「逆ですね」
「逆です」
「なんで逆の仕事に来たんですか」
「……今日は、その質問には答えられません」
川瀬奈緒は頷いた。
慣れた頷き方だった。
答えない俺に、もう慣れている。
それが申し訳ないような、少し楽なような、妙な心地だった。
◇
帰り際、まだ雨が降っていた。
「これ、使ってください」
川瀬奈緒が、玄関の傘立てから一本取って差し出した。
「折衝課が受け取るわけにも」
「持ち帰ってください。返しに来るとき、持って来てくれれば」
「ありがとうございます」
傘を受け取った。
木の柄が、手によく馴染んだ。使い込まれた柄だった。彼女が何度も差してきた傘なのだとわかった。
エレベーターの扉が閉まる直前、川瀬奈緒がまだ玄関に立っているのが見えた。
次に来るときには返さなければいけない。
返したら、また来る理由が一本減る。
そう考えてから、自分がそんなことを考えたことに、少し驚いた。
理由が減る。
減ると困る。
なぜ困るのか。
これも、答えが出ない。
駅まで、借りた傘を差して歩いた。
木の柄が手に馴染んで、まるで前から自分のものだったように雨をしのいだ。
誰かの傘の下は、思っていたより乾いていた。




