第六十六話「照合してほしい、と一度言った」
今週も、川瀬奈緒の部屋に上がった。最近、照合の話を少しずつするようになっていた。避けるのを、やめた。触れない話題を、二人で少しずつ、手で触れるようになっていた。
◇
「照合してほしいと思うことが、あります」と川瀬奈緒が言った。
俺は、顔を上げた。
「思うんですか」
「はい。でも、すぐ撤回したくなります。今みたいに。照合してほしいと思った次の瞬間に、やっぱり怖いと思って。一日に何度も、行ったり来たりしています。朝は照合したくて、昼は怖くて、夜にまた、確かめたくなって」
川瀬奈緒は、カップを両手で持った。
「折衝さんは、どうですか」
「……俺も、同じです。照合すれば、答えが出る。出れば、楽になる気もする。でも、出た答えは消せない。消せないと思うと、手が止まる」
「消せないというのが、怖いんですよね」
「はい。間違っていてもやり直せない。確率ならまた計算し直せます。でも、出た100%は、もう一度測り直すものじゃない」
川瀬奈緒は窓の外を見た。ブランコが揺れていた。今日は風が弱く、揺れ幅は小さかった。それでも、止まってはいなかった。
◇
「もし」と川瀬奈緒が言った。「もし照合して、100%じゃなかったら。折衝さん、来なくなりますか」
三秒。
「来ます」
「100%じゃなくても?」
「100%じゃなくても」
その答えは、考えずに出た。考える必要が、なかった。100%かどうかと、また来るかどうかは、もう、別のことになっていた。
川瀬奈緒は、少し笑った。
「じゃあ、照合してもしなくても、来てくれるんですね。だったら、照合する意味あるんですかね」
俺は、答えられなかった。照合してもしなくても、俺は来る。では、照合する意味は何だ。
◇
「今日も、撤回します」と川瀬奈緒が言った。「照合してほしいを撤回します。今日は。でも明日はまた、思うかもしれません」
「はい」
「変ですよね。確かめたいのに、確かめなくても変わらないのに、確かめたい」
「変じゃ、ないと思います」
「どうしてですか」
「確かめたいのは、結果のためじゃないからです。来るか来ないかは、もう決まっています。それでも確かめたいのは——たぶん、川瀬さんが俺にとって何なのかを、ちゃんと知っておきたいからです。来る理由を、自分で、はっきりさせたい」
言ってから、また「データではなく」の続きを、口にしかけていることに気づいた。今日は、止めなかった。
照合してもしなくても、俺は来る。では、照合する意味は何だ。答えは出なかった。ただ、その問いが消えないこと自体が、たぶん答えに近かった。意味がなくても確かめたいなら、それは確率の話ではなく別の何かの話だ。証明したいのではなく、ただ知りたい。相手が自分にとって何なのかを、数字で確かめたい。それは、もう業務ではなかった。
川瀬奈緒は今日も「照合してほしい」を撤回した。明日はまた思う、と言って。俺も同じだった。二人とも確かめたくて、確かめられずにいた。90日のうち、もう何日かが、そうやって過ぎていた。残りの日数が、静かに減っていく。減っていくこと自体は、誰にも止められなかった。
次話「照合したら、何がわかるんだ」




