第五十六話「川瀬さんが、聞くと言った日」
翌週、川瀬奈緒の部屋に上がった。
扉が開いた瞬間、いつもと空気が違った。川瀬奈緒の顔が、少し硬かった。何かを決めてきた人の、硬さだった。
「また来たんですか」
「来ました」
「今日、聞きます」
◇
部屋に上がる前に、玄関で川瀬奈緒が言った。立ち話のまま、先に言ってしまった。部屋に入ってからでは言えなくなる。そういう言い方だった。
「聞けない質問、今日聞きます。だから今日は——ちゃんと聞いてください」
「わかりました」
部屋に上がった。コーヒーが、用意されていた。今日も、濃かった。
川瀬奈緒は、すぐには聞かなかった。コーヒーを、一口飲んだ。俺も、飲んだ。長い、沈黙があった。沈黙の間、川瀬奈緒は何度か口を開きかけて、閉じた。聞くと決めても、最初の一語が、出てこないようだった。
◇
「やっぱり、今日は聞けないかもしれません」と川瀬奈緒が言った。
「いいんですか」
「よくないです。でも、いざ聞こうとすると、怖くて」
「怖い、というのは」
「答えが、返ってくるのが」
川瀬奈緒は、カップを両手で持った。指先が、少しだけ白くなっていた。
「前に、言いましたよね。聞いたら折衝さんが来なくなる気がすると。あのときと、少し変わりました」
「どう変わったんですか」
「……今は、聞いたら、何かが始まる気がして。始まるのが、怖いんです」
◇
終わるのが怖いのではなく、始まるのが怖い。怖さの向きが、変わっていた。前は、これ以上失うのが怖かった。今は、新しく手に入れるのが怖い。失う怖さより、手に入れる怖さの方が、たぶん、希望に近い。
「川瀬さん」と俺は言った。
「はい」
「始まっても、いいんじゃないですか」
言ってから、業務上の発言として完全に逸脱していると気づいた。折衝課の人間が、対象者に「始まってもいい」と言う。これは、介入ではない。逆だった。気づいても、撤回しなかった。撤回したくなかった。
川瀬奈緒は、俺を見た。長い間、見ていた。
「……折衝さんが、それを言うんですね。折る仕事の人が、始まってもいいと言うんですね」
「はい」
川瀬奈緒は、少し笑った。涙ぐんでいるような、笑い方だった。目の縁が、光っていた。
「ずるいです、それ」
「すみません」
「謝らないでください」
◇
「今日は、聞きません」と川瀬奈緒が言った。「でも次は聞きます。本当に。次来たとき、覚悟して来てください」
「覚悟」
「はい。私が、聞く覚悟です。折衝さんも、答える覚悟をしてきてください」
俺は、頷いた。答える覚悟。何を答えるのかも、まだわからないのに。ただ、頷いた。
◇
帰り際、玄関でもう一度、川瀬奈緒の顔を見た。「次は聞く」と言った顔は、硬さが取れていた。聞くと決めたことで、聞けない苦しさからは、少し自由になったらしかった。決めるだけで、人は少し楽になる。答えが出る前に、決めただけで。折る仕事の人間が「始まってもいい」と言った日を、たぶん俺は、長く覚えている。覚えていたいと、思った。
次話「鶴田が、A4を37枚持ってきた」




