第五十五話「コーヒーが、また濃くなった」
今週も、川瀬奈緒の部屋に上がった。
コーヒーが、また濃くなっていた。薄くなっていた時期が、嘘のように濃かった。最初の頃の濃さに、戻っていた。一口飲んで、すぐにわかるほどの濃さだった。
「濃いですね、今日」と俺は言った。
「……そうですか」
「最初の頃の濃さに、戻っています」
川瀬奈緒は、少し驚いた顔をした。それから、自分のカップを見た。確かめるように、一口飲んだ。
「気づいていませんでした」
「無意識ですか」
「無意識だと思います。最近、また濃くしたくなって」
◇
コーヒーの濃さが、川瀬奈緒の何かを表している。最初は濃かった。長く居てもらうための濃さだったのかもしれない。途中で薄くなった。来ると信じ始めて、引き留める必要がなくなった頃だ。今、また濃い。
濃さの履歴を、頭の中に並べた。薄くなったのは、田村のことを考える時間が減って、感情が落ち着いた時期だ。また濃くなったのは、あの画面を見て、ERRORのことを考え始めてからだった。落ち着いていたものが、また動き出している。揺れているとき、彼女のコーヒーは濃くなる。今、彼女は揺れていた。
「川瀬さん」と俺は言った。
「はい」
「最近、何を考えていますか」
川瀬奈緒は、カップを持った。
「……聞けない質問のことを、考えています」
「まだ、聞けないんですか」
「聞けません。でも——もうすぐ、聞くと思います。聞かないでいるのが、つらくなってきました。抱えているのが、重くて」
◇
川瀬奈緒は、窓の外を見た。公園のブランコが、風に揺れていた。誰も乗っていないのに、二つとも揺れていた。
「折衝さんは、あの画面のこと、まだわからないんですか」
「わかりません。鶴田に聞いても、計算中だと」
「……折衝さんも私と同じで、答えを待っているんですね。鶴田さんの計算が終わるのを、待っている。私は、聞けない質問を聞く勇気が出るのを待っている。二人とも、何かを待っています」
「待っているもの同士、ですね」
「はい。変ですね。折る人と折られる人が、並んで、同じものを待ってる」
俺は、何も言えなかった。折る人と折られる人。その枠はもうとっくに二人の間で意味をなくしていた。最初は、たしかにその枠の中にいた。俺は折りに来て、彼女は折られる側だった。今は、同じテーブルで濃いコーヒーを飲み、同じ答えを待っている。枠の名前だけが残って、中身が、すっかり入れ替わっていた。ただ、それを口に出すのは、今日ではなかった。口に出せば、枠そのものが壊れる。壊れたあとに何が残るのかを、まだ、確かめる勇気がなかった。
◇
帰り際、もう一度コーヒーを見た。最初の濃さに戻ったコーヒー。最初の頃、これは長く居てもらうための口実だった。今、また濃いのは、何のためなのか。川瀬奈緒は無意識だと言った。無意識に濃くしたものの理由を、本人も俺も、計算が終わるまで知らないままだった。揺れているもの同士が濃いコーヒーを挟んで向かい合っていた。
次話「川瀬さんが、聞くと言った日」




