「お前が折衝課に来た理由を、覚えているか」
数日後、課長に廊下で呼び止められた。窓のない廊下だった。
「この前の話の、続きだ」
「外れ値の、ですか」
「いや。お前が折衝課に来た理由の話だ」
課長は、立ったまま話した。歩きながらでも座ってでもなく、廊下の真ん中で立ち止まって。話す場所を、わざと選んだように見えた。記録の残らない場所を。鶴田が外で俺を待ったときと、同じだった。
「お前を折衝課に配属したのは、俺だ。人事から、お前の経歴を見た。元・人事担当。データで人を判断する仕事。折衝課に向いている、と思った」
「はい」
「だが、もう一つ理由があった」
「何ですか」
「お前のPAIRデータが、ERRORだった」
俺は、課長を見た。
◇
「ERRORの人間を折衝課に置くと、どうなるか——興味があった」
興味があった、と課長は言った。実験のような言い方だった。三年前、俺は一人の職員として配属されたつもりだった。本当は、一つの観察対象としてここに置かれたのかもしれなかった。数字のない人間が、数字で人を折る場所に置かれたらどうなるか。その答えが、いまの俺だった。三年かけて、一度も押せない男になった。それが課長の見たかった答えだったのかどうかは、わからない。
「課長は、俺のERRORを知っていたんですか」
「配属のときに、人事データで見た。理由は知らん。ただ、ERRORと出ていた。珍しいから、覚えていた」
「理由は、知らない」
「知らん。保守課の領域だ。俺の権限では、開けない」
課長も、ERRORの理由は知らない。鶴田だけが、知っている。そう思った。少なくとも、課長の口ぶりからはそう聞こえた。知らない人間の言い方だった。ただ、課長は昔から、知らないことと言わないことを同じ顔で並べる人だった。どちらなのかは、わからなかった。
「なぜ今、それを俺に言うんですか」
課長は、少し黙った。
「お前が3ヶ月以上、川瀬案件を折れずにいる。スタンプも押せない。それを見ていて——思い出したことがあった」
「何を、ですか」
「それは、今日は言わない」
また、同じ言葉だった。三度目だった。課長の中には、今日は言わないことがいくつもあった。一つずつ扉の前まで来て、開けずに帰る。そういう話し方を、ここ最近の課長は繰り返していた。
◇
「課長。一つだけ、教えてください」
「言ってみろ」
「課長が押せるようになった理由は——折衝課の仕事を肯定できたからですか。それとも、諦めたからですか」
課長は、俺を見た。長い間、見ていた。廊下の蛍光灯が課長の顔を均一に照らしていた。影のない顔だった。窓のない廊下では人の顔に影ができない。
「鋭いな、お前は」
それだけ言って、課長は歩いていった。肯定とも諦めとも言わなかった。その沈黙が、たぶん答えだった。課長は、押せるようになったのではない。押せるように、自分をした。肯定したのでも諦めたのでもなく、その間のどこかで自分を、押せる人間に作り変えた。その作り変えに、何があったのか。課長はまだ、扉の前で引き返していた。
帰りの電車は、川瀬奈緒の住む街を通る路線だった。降りない駅の灯りが、窓の外を流れていった。押せる人間に自分を作り変えた人の話を聞いた日に、俺は作り変えなくていい場所の灯りを、座ったまま見ていた。
次話「コーヒーが、また濃くなった」




