第五十三話「初めて、課長に問う」
翌日、課長室に行った。督促ではなく、俺の方から行った。自分から課長室の扉を叩いたのは、配属以来初めてだった。
「課長。外れ値8%のデータを、なぜ非公開にしているんですか」
課長は、モニターから顔を上げた。少しの間、俺の顔を見た。
「藪から棒だな」
「外れ値カップルが、恋管に来ました。訴訟を検討していると。彼らは折られそうになって、折れなくて幸せになった人たちです」
「知っている」
「なぜ、非公開なんですか」
◇
課長は少しの間、俺を見た。それから、モニターを消した。話す気がある、という合図に見えた。
「公開したら、どうなると思う」
「折衝課の、存在意義が問われます」
「それだけか」
「……外れ値が存在するなら、PAIRの判定は絶対ではない。折る判断が、間違っている可能性がある。8%の縁を、間違って折ってきた可能性がある。それを、認めることになります」
「そうだ」
「だから、隠すんですか」
課長は、答えなかった。沈黙が、肯定に聞こえた。隠す理由を否定しないということは、その通りだということだ。間違っているかもしれない判断を、組織のために正しいことにしておく。そのために、8%を伏せる。課長は、それを二十年やってきた人だった。
課長は答える代わりに、別のことを聞いた。聞き方が、はぐらかしではなかった。もっと奥へ入っていく聞き方だった。
「お前、なぜ折衝課に来た」
いつもの問いだった。何度か、聞かれた。
「……データで判断するのが、得意だったからです。採用の仕事で、一度後悔したことがあって。データで判断することが正しいと、確かめたかった」
「確かめて、どうだった」
三秒、答えられなかった。
「確かめられて、いません。まだ」
◇
課長は、少し黙った。それから、意外なことを言った。
「お前のスタンプ、空白だな」
「……はい」
「312件、いや今はもっとか。全部、空白だ」
「はい」
「俺もな」
俺は、課長を見た。聞き間違いかと思った。
「俺も、最初の頃は押せなかった」
「課長も、ですか」
「ああ。配属されて、しばらくは一件も押せなかった。お前と同じだ」
「だが、ある時から押せるようになった」
「なぜですか」
俺は、身を乗り出していた。これは、自分のことでもあった。押せない人間が、どうやって押せるようになるのか。その境目を知れば、自分の今が少しわかるかもしれない。あるいは、知りたくないのかもしれなかった。押せるようになるということが、何かを失うことだとしたら。
課長はモニターのない机を、しばらく見ていた。消したばかりの、黒い画面を。
「それは、今日は言わない」
いつもの「余計なことを考えるな」では、なかった。突き放す言葉ではなかった。言いたくないのではなく「まだ言う時ではない」という閉じ方だった。押せなかった男が、押せるようになった。その境目に何があったのかを、課長は今日初めて匂わせて閉じた。匂わせたこと自体が、課長にとっては大きな一歩のように見えた。
課長室を出て、廊下で手帳を開いた。答えの出なかった問いの横に、次の訪問日だけが、確かな日付で入っていた。今日わかったことは、少ない。ただ、行く日は決まっている。それで足りる日も、ある。
次話「お前が折衝課に来た理由を、覚えているか」




