第四十八話「折衝課の同僚が、辞めた」
折衝課の同僚が、辞めることになった。名前は桐生。俺より少し年上の、ベテランだった。折衝課で五年。俺より長く、人の縁を折ってきた男だった。
◇
桐生は、最終出勤日に、俺に話しかけてきた。窓のない部屋で、段ボールに私物を詰めながら。
「森本さん、川瀬案件、まだ続けてるんだって?」
「はい」
「3ヶ月以上だろ。すごいな」
「すごくは、ないです」
桐生は、少し笑った。
「俺はさ、もう折れなくなったんだよ」
「折れなく、というのは」
「人の縁を、折れなくなった。最初は平気だったんだ。データだと思えば。スコアが低いから折る。理屈は通ってる。でも、何百件もやってると、折ってる相手が人に見えてくる。スコアの後ろに、顔が見えてくるんだ。そうなると、もう、ダメだ」
桐生は、自分のデスクを片付けながら言った。手が、少し疲れていた。
「外れ値の話、知ってるだろ。8%」
「はい」
「あれを知ってから、ダメになった。俺が折った縁の中に、8%が混じってたかもしれない。本当は続いた縁を、俺が折ったかもしれない。何百件のうちの、何件か。誰だったかは、もうわからない。確かめようもない。そう思ったら、もう、押せなくなった」
「スタンプ、ですか」
「ああ。お前も、押してないんだろ」
桐生は、俺の胸ポケットを見た。
「噂になってるぞ。スタンプを一度も使わない男って」
「知りませんでした」
「有名だよ。お前」
◇
「桐生さんは、これから、どうするんですか」
「架橋課に移る。繋げる方なら、まだやれる気がして。同じ人を相手にしても、繋げるのと折るのじゃ、心の減り方が違う。繋げる方は、減らないんだ。たぶん。窓も、あるしな」
窓のある部署へ移る、と桐生は言った。以前、鶴田が言っていた通りだった。外を見ると、折れなくなる。桐生は、外を見すぎた人間だった。
桐生は、荷物をまとめた。段ボール一つに、五年が収まっていた。最後に、一つだけ言った。
「森本さん。お前、川瀬案件を折れないんじゃない。折りたくないんだろ」
俺は、答えなかった。
「俺はな、折れなくなって辞める。お前は、折りたくなくて、残ってる。似てるようで、逆だ。お前のは、もう仕事じゃないからな」
桐生は、折衝課を出ていった。窓のない部屋から、窓のある架橋課へ。
◇
答えられなかったのではない。答えたくなかった。折れないんじゃない、折りたくない。同じことを、前に自分でも所見に書いた。「終わらせたくない」と。桐生は、俺が紙にだけ書いたことを、声に出して俺に返した。
スタンプを一度も使わない男。噂は、たぶん当たっていた。桐生は8%を知って押せなくなり、辞めた。俺は8%を知る前から、一度も押せていない。同じ「押せない」でも、始まった場所が違った。桐生のは、知ったことで壊れた。俺のは、最初から、そうだった。配属初日に、最初の案件で、もう押せなかった。理由を知る前から、押せない人間。それがどういう人間なのかは、まだ、自分でもわからなかった。
帰る前に、手帳を開いた。明日の欄に、訪問予定が一件だけあった。窓のない部屋の一日の終わりに、その一行だけが、小さな窓みたいに見えた。
次話「窓のある部屋で」




