第四十七話「鶴田の昼食、37分」
その日、食堂で鶴田と一緒になった。鶴田はトレーを持ったまま、メニュー表の前に立っていた。
1分。2分。5分。
「鶴田さん、まだ決まらないんですか」
「決まりません」
「何を悩んでいるんですか」
「A定食とB定食の、期待効用を計算しています」
「期待効用」
「A定食は確実に美味しい。期待値は高いが、分散が小さい。B定食は当たり外れがある。期待値はやや低いが、分散が大きい。どちらを選ぶべきか」
「美味しい方でいいじゃないですか」
「美味しさは食べてみないとわかりません。事前にはわからない。メニューの写真は、実物と相関係数0.6程度です。当てになりません」
「写真の相関係数まで測ったんですか」
「半年かけて、記録しました」
俺は、それ以上聞かないことにした。
◇
「じゃあ、食べたい方で」
「食べたい、という感情を、私は計算式で表現できません」
「腹は、減ってるんですよね」
「減っています。空腹度は、推定で72%です」
「だったら、量の多い方で」
「量と満足度は線形ではありません。一定量を超えると満足度は逓減します。B定食の量だと、逓減域に入る可能性が——」
「鶴田さん」
「はい」
「後ろ、並んでます」
鶴田の後ろに、列ができていた。鶴田は列を振り返った。それから列の人数を数えるような目をして、またメニュー表に戻った。
「待たせている、という事実が新しい変数として加わりました」
「早く決まる変数ですか」
「いえ。考慮事項が、一つ増えました」
列が、長くなった。
◇
結局、鶴田は37分悩んで、A定食を選んだ。食べ始めたのは、昼休みが終わる10分前だった。10分で、きっちり食べ終えた。咀嚼の回数は、たぶん一定だった。
「鶴田さんは、他人の感情は計算できるのに、自分のことは決められないんですね」
「はい。他人の感情データは、客観的に処理できます。自分の感情は、データとして取得できないので」
「自分の心拍数とか、取れないんですか」
「取れます」
鶴田は胸ポケットの機器に、手を当てた。
「ただ、自分の心拍が上がったとき、それが空腹なのか緊張なのか別の何かなのか。私にはわかりません。数値は取れる。意味が、わからない」
「数値は取れるのに、意味がわからない」
「森本さんのERRORと、似ています。表示は出る。意味が、わからない」
鶴田は、A定食を食べ終えた。
「川瀬さんは、自分の感情がわかるんでしょうか」
「なぜ、川瀬さんが出てくるんですか」
「いえ。最も変数の多い対象者なので」
「川瀬さんは、自分でもわからないと言っています。最近」
「そうですか」
鶴田は、少し考えた。
「森本さんと、同じですね。お二人とも、自分の感情をデータとして処理しようとして、できていません。私と同じです。三人とも、他人のことならわかるのに」
それだけ言って、トレーを片付けに行った。トレーの戻し方まで、規則的だった。
◇
俺は、残ったコーヒーを飲んだ。食堂のコーヒーは、薄かった。川瀬奈緒の部屋のコーヒーとは、まるで違う薄さだった。同じ薄さでも、意味が違う。あちらの薄さには、理由があった。
37分かけてA定食を選んだ男が、最後にいちばん重いことを言って去った。鶴田も、自分の心拍が何なのかわからない。俺も川瀬奈緒も、鶴田も。感情を測る側にいる三人が、揃って自分の感情だけ測れずにいた。他人の感情なら、いくらでも測れるのに。いちばん近いものだけが、測れない。それは、もうこの制度全体の病なのかもしれなかった。




