第四十話「画面に、私の名前がありました」
川瀬奈緒が、ガラスの仕切りに近づいた。俺も、振り返ったまま、その視線の先を見た。
鶴田の端末の画面。監査のために開かれた、普段は閉じている領域。
遠くて、文字は読めなかった。ただ、川瀬奈緒には、読めたらしかった。
◇
「折衝さん」
川瀬奈緒の声が、変わっていた。
「あの画面に、ERRORって、書いてあります」
「監査中なので、エラー表示が出ることもあります」
「その下に」
川瀬奈緒が、ガラスに少し手をついた。
「私の名前が、あります」
◇
俺は立ち上がった。鶴田の画面を見ようとした。
そのとき、鶴田が顔を上げた。こちらに気づいた。鶴田が、端末の画面を、閉じた。
素早かった。監査中なのに、点検中のデータを閉じた。
◇
川瀬奈緒は、ガラスの前に立ったまま、動かなかった。
「今の、私の名前でしたよね。ERRORって書いてあって、その下に、私の名前があって」
俺は、川瀬奈緒の後ろに立った。何と言えばいいか、わからなかった。
俺のPAIRデータは、配属当初からずっとERRORだ。その表示の下に、川瀬奈緒の名前が並んでいた。なぜ。
◇
鶴田が、待合室に来た。
「川瀬さん」と鶴田が言った。
「今の画面、何ですか」と川瀬奈緒が聞いた。
「監査中のデータです。お見せできるものではありません」
「私の名前が、ありました」
「監査では、全対象者のデータを点検します。川瀬さんのデータも含まれます」
「ERRORの下に、ありました」
鶴田は、答えなかった。
「鶴田さん」と川瀬奈緒が言った。「答えてください」
鶴田は、端末を持ち直した。いつもの仕草だった。ただ、いつもの「計算中です」を、言わなかった。
「お答えできません」
◇
川瀬奈緒は、鶴田を見た。それから、俺を見た。
「折衝さんは、知っているんですか。あの画面の意味を」
「知りません」
本当に、知らなかった。自分のデータがERRORであることは知っている。ただ、なぜ川瀬奈緒の名前が並ぶのかは、わからなかった。
「知らないんですか」と川瀬奈緒が聞いた。
「知りません。本当に」
川瀬奈緒は、俺の目を見た。少しの間、何も言わなかった。
「わかりました」と川瀬奈緒は言った。「折衝さんは、知らないんですね」
◇
その日の説明は、できなかった。川瀬奈緒は「今日は帰ります」と言って、帰った。介入継続理由の説明は、後日に延期された。
◇
俺は、鶴田を呼んだ。
「あの画面は、何だ」
「監査中のデータです」
「川瀬奈緒の名前が、俺のERRORの下にあった。なぜだ」
鶴田は、少し黙った。
「計算が、まだ終わっていません」
「鶴田。ごまかすな。あれは何だ」
「ごまかしてはいません。本当に、計算が終わっていません。終わったら、言います。約束します」
俺は、鶴田を見た。鶴田は、目をそらさなかった。いつも感情の読めない目が、今日は少しだけ、何かを堪えているように見えた。
「いつ終わる」
「もうすぐです」
◇
その日、スタンプを取り出した。書類の上ではなく、ただ手の中に握った。長い間、握っていた。
俺のERRORの下に、川瀬奈緒の名前がある。鶴田の権限でしか開けない領域に。鶴田は、もうすぐ終わると言った。何が終わるのかは、言わなかった。一度も押せなかったスタンプの角が、握った手のひらに、跡をつけていた。
次話「鶴田は、答えなかった」




