第三十九話「恋管の、待合室」
来週になった。川瀬奈緒が、恋管に来る日だった。
◇
午後、受付から連絡が来た。「川瀬様がお見えです。待合室にお通ししています」
待合室。保守課の、すぐ隣だ。
俺は説明資料を持って、待合室に向かった。資料の中身は、結局、制度の言葉で埋めた。継続確認のため。対象者の感情状態の安定を待つため。嘘ではない。ただ、本当でもない。本当のところは、一行も書いていなかった。
◇
待合室は、恋管の2階にあった。架橋課と保守課の間の、小さな部屋だ。ガラスの仕切りの向こうに、保守課のフロアが見える。監査の週で、保守課の職員が忙しく動いていた。普段は静かなフロアが、今日は画面の光で、いつもより明るかった。
川瀬奈緒は、待合室の椅子に座っていた。いつもの部屋とも、公園とも違う場所にいる川瀬奈緒は、少し小さく見えた。彼女の生活の場所ではない、制度の場所にいるからだ。コーヒーもブランコもない部屋で、彼女は背筋を伸ばして座っていた。
「お待たせしました」
「折衝さん。ここで会うの、変な感じですね。いつも、私の部屋か、公園なので」
「そうですね」
いつもは俺が、彼女の場所に行く。今日は、彼女が俺の場所に来た。立場が、初めて入れ替わっていた。入れ替わると、こんなに勝手が違うのかと思った。
◇
俺は川瀬奈緒の向かいに座った。説明資料を出した。
「介入継続の理由について、ご説明します」
「はい」
「川瀬さんの案件は、成立確率11%と算出されています。標準的には、5回以内の介入で終了処理を——」
川瀬奈緒が、俺の後ろを見た。ガラスの仕切りの向こう、保守課のフロアを。説明を、聞いていなかった。視線が、俺を通り越して、その奥へ向いていた。
「折衝さん。あの人、保守課の鶴田さんですよね」
振り返った。鶴田が、端末の前に座っていた。監査のために、データを開いている。普段は閉じている領域まで、すべて。背中を、こちらに向けていた。俺たちが待合室にいることに、まだ気づいていないようだった。
「そうです。前に話した、保守課の」
「あの人が、私の数字を見ているんですね」
「監査なので、全員のデータを点検します」
「全員の中に、私がいる」
川瀬奈緒の声が、少し低くなった。自分が「全員の中の一人」であることを、確かめるような声だった。
◇
川瀬奈緒が、立ち上がった。俺も、その視線を追った。ガラスの向こう、鶴田の画面に、データが開いていた。その中に、川瀬奈緒の名前があった。スコアの欄。
数字が、揺れていた。11%。一瞬、別の数字。また、11%。
川瀬奈緒は、それを見ていた。説明資料の11%と、ガラスの向こうで揺れる11%。同じ数字のはずなのに、片方は紙の上で止まっていて、もう片方は生きているように動いていた。紙の11%は、三年間動かなかった数字だ。ガラスの向こうの11%は、瞬きのたびに、わずかに上を向こうとしていた。同じ女の、同じ数字が、二つの場所で、別々の顔をしていた。
「折衝さん」と、川瀬奈緒が言った。
「あの数字、私のですよね」




