第四話「彼女は知っていて、諦めていなかった」
別の女と付き合っている男が、PAIRの幸福度スコアを気にしている。
それだけでも、十分に奇妙だった。
その週、川瀬奈緒の部屋に上がった。
台所に、洗ったばかりのカップが二つ、伏せて並んでいた。一つは今日、俺のために洗われたものだ。介入対象の部屋で、自分のために用意された食器を見るのは、何度経験しても妙な気分だった。
今日も俺から先にコーヒーに手をつけた。
川瀬奈緒はそれを見て、少し笑った。先週「冷めないうちに」と言ったことを、覚えているのかもしれなかった。
コーヒーは、先週と同じ濃さだった。
落ち着く濃さに、固定されつつあった。
◇
「田村さんがすでに別の方と交際しているのを、ご存じでしたか」
「知ってます」
「いつから」
「去年の秋ごろ。職場の人から聞きました」
介入が始まったのは七ヶ月前。
彼女は最初から、それを知った上で「諦めていない」と言っていた。
「知っていて、諦めていないんですか」
「はい」
「なぜですか」
川瀬奈緒はカップを置いた。
置く音が、少しだけ硬かった。
「11%は0%じゃないんです」
また、その言葉だ。
ただ今日の声は違った。俺への反論ではなく、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「田村さんが交際中でも、11%は変わらないんですか」
「PAIRがそう言っているなら、変わらないんじゃないですか。だったら、同じです」
「同じ、ですか」
「同じだと思わないと、三年が無駄になるので」
川瀬奈緒は、すぐに口を閉じた。
今の言葉だけは、言うつもりがなかったのだとわかった。
◇
彼女は窓の外を見た。
公園に子供の姿はなかった。ブランコも、滑り台も、誰も使っていない。出生率0.5の街の、平日の午後だった。
「田村さんが誰かと付き合っているのは知っています。その人が幸せそうなのも、なんとなく知っています。私が取り残されているのも、わかっています。ただ——11%は、残っているので」
取り残されている。
本人が、そう言った。
わかった上で、残っている数字に手を伸ばしている。
◇
少し間があった後、川瀬奈緒が切り出した。
「実は、折衝さんが来る前に、自分で少し調べたんです。恋管の公開情報です」
「何をですか」
「外れ値ってデータ、ありますよね。介入後も関係が続いたカップルがいると。幸福度スコアが高いとも書いてありました。本当ですか」
俺は黙った。
手元のカップの、濃い色を見ていた。
「確認します」
「そうですか」
川瀬奈緒は責めなかった。それ以上は聞かなかった。聞けば俺が答えに詰まることを、見越しているようだった。
ただ、少し目が変わっていた。
知っている人間の目だ、と思った。
俺がまだ口に出していないことを、この人はもう調べ始めている。
◇
帰り際、テーブルのコーヒーは二つとも空になっていた。
先週まで、俺の分はいつも半分残っていた。
川瀬奈緒はそれに気づいて、カップを下げる手を一瞬止めた。
「今日は、飲みましたね」
「濃さが、ちょうどよかったので」
「それは、よかったです」
それだけの会話だった。
それだけなのに、帰り道まで残った。




