第三十七話「課長の机の、古い書類」
翌日、課長に書類を届けに行った。課長は席を外していた。机に書類を置こうとしたとき、目に入った。
◇
課長の机の隅に、古い書類のファイルがあった。背表紙が日に焼けていた。何年もそこにあったのではなく、最近、どこかから出してきたような置き方だった。先日、課長が人の来るたびに引き出しにしまっていた、あの束だ。
「折衝課 設立記録 2048」と書いてあった。
設立当初の記録。課長は、設立当初からいる。三年前に俺を配属した男は、二十年前に、この部署を作った側の人間だった。
ファイルは閉じていた。中は見ていない。見るつもりもなかった。他人の机の上のものを開く趣味はない。ただ、背表紙の隅に、手書きの文字があった。印刷ではなく、手で書かれていた。課長の字だと思った。今も督促のメモで見る、あの字だった。
俺は、自分の手帳の所見を思い出した。誰にも提出しない、手書きの一行。課長も、手で書く人だった。システムに残さず、手で、紙に書く。残したくないものほど、人は手で書くのかもしれない。打てば記録に残る。書けば、自分の手元にだけ残る。
「外れ値:8%」
その下に、何か書いてあった。インクが薄れていて、読めなかった。ただ、「8%」の数字だけは、はっきり読めた。二十年前から、外れ値は8%だった。一度も、変わっていない。
俺が鶴田から渡された外れ値の概要も、8%だった。二十年、同じ数字が、同じ非公開のまま引き継がれてきた。設立した人間が隠し、今も同じ人間が、同じ部署で、同じ数字を隠している。隠す側が、一度も入れ替わっていない。それが、この部署の本当の姿なのかもしれなかった。
◇
設立当初から、外れ値は8%だった。課長は設立当初から、それを知っていた。そして、隠してきた。二十年、ずっと。
課長が戻ってきた。足音に気づくのが、遅れた。
「何をしている」
「書類を、お持ちしました」
「置いておけ」
課長は机に着いた。古いファイルを、引き出しにしまった。何も言わなかった。叱責もしなかった。ただ、しまうとき、少しだけ手が止まった。ファイルを引き出しの奥へ押し込む、その最後のところで、指が一瞬、背表紙に残った。名残を惜しむような、確かめるような、短い止まり方だった。
◇
廊下に出た。
課長が外れ値を隠す理由は、制度を守るためだ。8%が公開されれば、折衝課の存在意義が揺らぐ。だから隠す。それはわかる。理屈は、通っている。ただ、あの止まった手は、制度の話をしている手ではなかった。制度を守る人間は、書類をしまうときに、あんなふうに指を残したりしない。
設立記録の、薄れた一行を思い出した。「8%」の下の、読めなかった文字。あれは数字ではなく、誰かの名前だったかもしれない。そう思った理由は、自分でも、わからなかった。ただ、課長の手が止まったのは、数字をしまうときの止まり方ではなかった。何か——あるいは、誰かを、しまうときの手だった。
次話「川瀬さんが、恋管に来ることになった」




