第三十六話「コーヒーを、淹れさせてくれませんか」
今週も、川瀬奈緒の部屋に上がった。外は雪になりそうな空だったので、今日は中だった。
コーヒーが2人分、用意されていた。
◇
インタビューの前に、俺は言った。
「今日、コーヒーを淹れさせてくれませんか」
川瀬奈緒が、少し驚いた顔をした。
「折衝さんが、ですか」
「はい」
「なぜですか」
「いつも淹れてもらっているので」
言ってから、業務上の発言ではないと気づいた。気づいても、訂正しなかった。三ヶ月、ずっと出してもらってきた。一度くらい、自分が出す側になりたかった。なぜそう思うのかは、考えないことにした。
◇
台所に立った。川瀬奈緒の台所は、整頓されていた。豆と、ミルと、ドリッパー。手順は、見ればわかった。豆の袋には、半分くらいまで使った線が、内側についていた。三ヶ月分、俺のために減ってきた豆だった。
「豆、多めですよね、いつも」と俺は言った。
「わかるんですか」
「濃かったので。最近は、薄くなりましたが」
川瀬奈緒は楽しそうに笑った。台所の入口に立って、俺の手元を見ていた。見られていることが、嫌ではなかった。
「淹れ方、丁寧ですね」
「人事のとき、来客対応もしていたので」
「意外です」
「何がですか」
「折衝さんが、人に何かを出す側だったことが」
俺は手を止めた。折る仕事の前に、人に何かを出す仕事をしていた。湯を注ぐ手は、その頃の手順を覚えていた。今は、折る仕事をしている。人に何かを出す手で、人の縁を折っている。
◇
コーヒーを2杯、淹れた。テーブルに置いた。川瀬奈緒が一口飲んだ。
「濃いですね」
「すみません。加減が、わからなくて」
「いえ。久しぶりに、濃いの飲みました」
川瀬奈緒は、カップを両手で持った。
「自分で淹れると、つい薄くしちゃうんです、最近。誰かに淹れてもらうと、濃いんですね」
「次から、薄めにします」
「いえ。今日は、これがいいです」
今日は、これがいい。彼女が薄くしてきたのは、来ると信じ始めたからだった。俺が濃く淹れたのは、加減を知らなかったからだ。けれど彼女は、その濃さを「今日はこれがいい」と言った。久しぶりの濃さを、受け取ってくれた。
◇
その後のインタビューは、短かった。お互い、あまり質問をしなかった。ただコーヒーを飲んで、窓の外の、雪になりそうな空を見ていた。沈黙が、気まずくなかった。沈黙が気まずくない相手は、人生でそう多くない。
帰り際、川瀬奈緒が言った。
「苦情を、出すかもしれません」
鶴田の言った通りだった。
「俺への、ですか」
「折衝課への、です。折衝さんがなぜ来続けるのか、正式に教えてほしくて」
「それは、聞けない質問とは、違うんですか」
川瀬奈緒は少し黙った。
「違います。聞けない質問は、もっと別のことです。これは、制度に聞く質問です。折衝さん個人には聞けないから、制度に聞きます」
俺は、何も言えなかった。制度になら聞ける、と彼女は言う。個人には聞けないことが、二人の間に、確かにあるということだった。
◇
今日は、スタンプを出さなかった。所見欄は、空のままにした。
帰り際、もう一度、台所を見た。俺が使ったドリッパーが、洗って、伏せてあった。川瀬奈緒が、俺の淹れたあとを、もう片付けていた。出す側だった男が一度だけ淹れたものを、いつも出す側の人が、片付けていた。役割が、一瞬だけ入れ替わって、また元に戻った。外は、まだ雪になっていなかった。
次話「課長の机の、古い書類」




