第三十三話「今月も、終了処理を出さなかった」
月末になった。
課長から、今月最後の督促が来た。文面はいつもより短かった。「本日中。」それだけだった。
◇
午後、終了処理書類を開いた。「川瀬奈緒 / 介入完了 / 調整終了」。
以前、一度だけ送信して、すぐ取り消した。あのときは、手が勝手に動いた。送れと言われたから、送った。送ってから、後悔した。今日は、違った。
書類を、最後まで見た。押せば終わる。終わらせれば、督促も止まる。鶴田の報告義務もなくなる。全部、楽になる。楽になる道が、目の前に一本だけ、まっすぐ伸びていた。
俺は、終わらせたくない。先日、それを所見に書いた。今日、その一語を、もう一度思い出した。書いた文字を思い出すだけで、手が動かなくなった。あのときは手が勝手に送信した。今日は、手が勝手に止まった。同じ手が、同じ案件で逆のことをしている。ただ、今月の方が、自分の判断に近い気がした。
書類を閉じた。送信しなかった。
◇
夕方、課長室に呼ばれた。
「出していないな」
「はい」
「理由は」
「継続確認が必要です」
「三ヶ月、同じことを言っている」
「はい」
課長は少し黙った。それから、意外なことを言った。
「お前、川瀬奈緒に会いに行くのが、仕事だとまだ思っているか」
三秒、答えられなかった。督促ではなかった。叱責でもなかった。もっと、奥を覗き込むような質問だった。仕事だと思っているか——その問い方は、仕事ではない可能性を、課長がすでに知っている問い方だった。知っていて、俺がどう答えるかを、確かめていた。
「業務上の、接触です」
「業務上の接触か」
「はい」
課長はモニターに向き直った。横顔が、また何かを思い出すような形になった。
「そうか」
それだけだった。督促の言葉は、もう言わなかった。「業務上の接触」と俺が言ったとき、課長はそれを信じた顔ではなかった。むしろ——昔、同じことを自分にも言い聞かせた人間の、聞き方だった。
◇
廊下に出ると、鶴田がいた。
「終了処理、今日も出ませんでしたね」
「はい」
「課長は、何と」
「業務上の接触か、と聞かれました」
鶴田は少し間を置いた。
「課長がその質問をしたのは、記録上、初めてです」
「記録しているんですか、課長の発言を」
「いいえ。ただ、課長が督促以外のことを言ったのが、初めてだったので」
「鶴田さん。課長は、なぜ今日、督促をやめたんでしょうか」
鶴田は端末を見た。何かの数字を、しばらく見ていた。
「……わかりません。ただ、課長の行動が変わったのは、森本さんが終了処理を取り消した日からです。あの日を境に、督促の文面が、少しずつ短くなっています」
「短くなっている」
「はい。叱るより——確かめているような文面に、変わっています」
「変数が、また増えました」
鶴田はそれだけ言って、川沿いの窓のある方へ歩いて行った。督促をやめた課長と、まだ何かを計算し続ける鶴田。今日は二人とも、いつもと違う一手を打った。何かが、月末の締切とは別のところで、動き始めていた。
次話「9%の案件は、礼を言った」




