第三十二話「聞けない質問を、まだ聞かない」
今週は、部屋を出てすぐだった。川瀬奈緒がコートを着て、玄関に立っていた。
「今日は、外を歩きませんか」
「寒くないですか」
「平気です。コート、厚いので」
厚いコートの袖から、手だけが少し赤かった。平気だと言いながら、もう外で少し待っていたのだとわかった。
◇
二人で、駅の方へ歩いた。十二月の終わりで、道の端に薄く霜が残っていた。歩くと、霜の溶け残りが、靴の下で小さく鳴った。川瀬奈緒は、歩幅を俺に合わせていた。合わせていることに、彼女は気づいていないようだった。
川瀬奈緒は今日、口数が少なかった。何かを言おうとして、言わない。そういう間が、何度かあった。息が白くなって、消えるのを、二人で見ていた。
「川瀬さん」
「はい」
「聞きたいことがあるのに聞けない、と前に言っていましたね」
川瀬奈緒が少し驚いた顔をした。
「覚えていたんですね」
「はい」
「今日、聞こうかと思っていました。でも、やっぱり、まだ聞けません」
「なぜですか」
川瀬奈緒は、前を見たまま歩いた。
「聞いてしまったら、答えが返ってくるからです」
「答えが返ってくるのが、嫌なんですか」
「答えによっては、折衝さんが来なくなる気がして」
◇
俺が来なくなる質問とは、何だ。心当たりがありすぎて、一つに絞れなかった。「なぜ来るのか」かもしれない。「いつまで来るのか」かもしれない。あるいは、もっと別の——口に出せば、二人の関係が業務でなくなってしまう、その一線を越える質問かもしれなかった。
「来なくなりませんよ」と俺は言った。
言ってから、業務上の発言として適切かどうか考えた。考えても、訂正する気にならなかった。三ヶ月前なら、こんなことは言わなかった。「継続案件ですので」と、業務の言葉で返していた。今は、業務の言葉が、すぐには出てこなくなっていた。
「本当ですか」
「月末に、案件の終了期限があります。それでも、来ます」
川瀬奈緒は少しの間、何も言わなかった。霜を踏む音だけが続いた。
「じゃあ、もう少し、聞かないでおきます」
「わかりました」
「聞かないでいる間も、来てくれますか」
「来ます」
◇
駅に着いた。改札の前で、川瀬奈緒が立ち止まった。
「折衝さん。一つだけ、聞いていいですか」
さっき、聞かないと言ったばかりだった。
「どうぞ」
川瀬奈緒はいたずらの顔で笑った。今日初めて、はっきり笑った。
「コーヒー、いつも残してましたよね。最近、全部飲んでます。気づいてました?」
予想していた質問では、なかった。身構えていたものと、まるで違った。重い質問を覚悟していた分、肩の力が抜けた。抜けたところに、その軽い質問が、すっと入ってきた。
「気づいて、いました」
「それだけです」
川瀬奈緒は改札を抜けて、行った。聞けない本当の質問の代わりに、コーヒーの話を置いていった。重い質問を一つ飲み込んで、軽い質問を一つ置いていく。それが、彼女の優しさの形だった。俺は、ホームと反対の方へ歩いた。今日は、まだ帰りたくなかった。
次話「今月も、終了処理を出さなかった」




