第三十話「俺は、この案件を終わらせたくない」
翌朝、デスクに着くと鶴田が来た。
「川瀬案件の終了処理期限が、今月末です。今月末に処理が出なかった場合、課長への正式報告が義務になります」
「……わかっています」
鶴田はそれだけ言って、出て行こうとした。
「鶴田さん」
「はい」
「計算が終わると言っていましたね、もうすぐ」
「……はい」
「終わったら、何が変わりますか」
鶴田は少し間を置いた。
「……変わることと、変わらないことがあります」
「具体的に言えますか」
「今日は言えません。ただ——計算が終わったとき、森本さんに言います。それだけです」
それだけ言って、鶴田は廊下に出た。
◇
午後、終了処理書類を開いた。「川瀬奈緒 / 介入完了 / 調整終了」。
テキストを入力しようとした。「調整終了」と打った。消した。「継続確認中」と打った。これは終了処理の言葉ではない。消した。
「……」
◇
手が止まった。
俺は、スタンプを胸ポケットから取り出した。
書類の「介入完了」の欄の上に、持っていった。
前より長く、持っていた。
1秒。3秒。5秒。7秒。
◇
(このスタンプは、ただの事務用品だ)
(押しても押さなくても、案件は終わる。誰も困らない。形式でしかない)
(312件、終わらせてきた。書類のテキストで、全部、終わっている)
(なのに、押せない)
(理由が——今日、少しだけわかった気がした)
◇
(「介入完了」は、「この縁は終わった」という意味だ)
(俺は312件、誰かの縁を折りに行った。折ったと、書類には書いた。手を引いたのは、いつも向こうだった)
(ただ——「終わった」と、押せなかった)
(俺は、何かが終わったと——一度も、認められたことがない)
(採用で落とした人間のことも、ずっと終わっていない。312件のどれも、俺の中では終わっていない)
(折れないものがある、と俺は知っている。だから押せない)
(そして川瀬案件は——折れないものの、一番、深いところにある)
◇
スタンプを、しまった。
◇
所見欄を開いた。今日は、いつもの一行ではなかった。
「スタンプを押せない理由が、少しわかった。俺は、終わったと認められない人間だ。312件、一度も終わっていない。川瀬案件は、その中で——一番、終わらせたくない。」
書いてから、最後の「終わらせたくない」を、消そうとした。
消さなかった。
データには残さない。
◇
夕方、川瀬奈緒に電話をかけた。
「はい、川瀬です」
「……森本です」
「来るんですね」
「……来ます。今週、伺えますか」
「何時でも」
「10時で」
「わかりました」
電話を切った。
(業務上の接触として処理される)
◇
翌朝、鶴田からメッセージが来た。
「川瀬さんへの通話記録、業務上の接触として処理されました。問題ありません。」
今日は返信しなかった。
月末まで、あと14日ある。
十四日あれば、終わらせる理由はいくらでも作れる。
十四日あっても、終わらせたい理由は、一つも見つからなかった。
終わらせる理由はいくらでも作れて、終わらせたい理由は一つもない。それが、たぶん答えだった。
次話「月末まで、あと十四日」




