第二十九話「コーヒーが、薄くなった」
インターホンを押した。
「……また来たんですか」
「来ました」
◇
部屋に上がった。コーヒーが2人分、用意されていた。飲んだ。少し薄かった。前回より、明確に薄かった。
川瀬奈緒は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
◇
インタビューをした。今日の川瀬奈緒の声は、落ち着いていた。田村への言及もなかった。ブランコの話もなかった。ただ静かに、俺の質問に答えていた。
「田村さんのことを、今日は考えていますか」
「……今日は、そこまで考えていません」
「そうですか」
「はい」
◇
少し間があって、川瀬奈緒が言った。
「折衝さん、最近、仕事以外で何か考えていますか」
「……何を聞きたいんですか」
「聞きたいことが、うまく言えなくて」
(また、「うまく言えない」だ)
(前にも言っていた。「聞けない質問がある」と)
「俺も」と俺は言った。「俺も——うまく言えないことが増えてきました」
川瀬奈緒は少し目を細めた。
「折衝さんも、ですか」
「はい」
「折衝課の人間が、そんなことを言っていいんですか」
「……今日はその質問に、答えます」
◇
川瀬奈緒が少し前のめりになった。
「……折衝課の人間が言っていいかどうかは、わかりません。ただ——川瀬さんに来るたびに、うまく言えないことが一つずつ増えています。それは、本当のことです」
川瀬奈緒はしばらく黙っていた。
「そうですか」
「はい」
「……それを、正直に言ってくれたんですね」
「はい」
◇
今日の川瀬奈緒の笑い方は、少し違った。笑っていると同時に、何かを堪えているような——そういう顔だった。
「コーヒー、薄くなりましたよね、最近」
「……はい。少し薄いですね」
「なんか、濃くする必要がなくなってきた気がして」
「そうですか」
「そうです」
◇
今日はスタンプを出さなかった。
所見欄に一行書いた。
「川瀬対象者、コーヒーが薄くなった。『濃くする必要がなくなってきた』と言った。俺は『うまく言えないことが増えている』と答えた——なぜ答えたかは、わからない。」
川瀬奈緒は、その薄いコーヒーを、いつもよりゆっくり飲んでいた。薄くなったから早く飲めるはずなのに、逆だった。
「濃いと、味に気を取られるんです」と彼女は言った。
「薄いと?」
「相手の声の方を、聞く余裕があります」
それは、コーヒーの話ではなかった。俺はカップを見た。薄くなった液面に、天井の灯りがぼんやり映っている。濃いと、映らないものがある。薄いから、向こう側が少し見える。
「俺の声は、聞きやすくなりましたか」
聞いてから、なぜそんなことを言ったのかと思った。
川瀬奈緒は少しだけ目を伏せた。
「前よりは」
その「前よりは」に、何話分もの訪問が含まれていた。
濃いコーヒーは、引き留めるためのものだった。長く座ってもらうための濃さ。薄いコーヒーは、その逆ではなかった。早く帰すためではなく、味より声を優先するための薄さだった。引き留めなくても、俺が来ると彼女は知っている。その確信が、コーヒーを薄くしていた。確信は、濃さより強い。
次話「俺は、この案件を終わらせたくない」




