第二十六話「保守課の、24時間遅延について」
ある日、恋管のシステム管理画面で、保守課の処理記録に気づいた。処理時刻が、翌日になっているエントリがいくつかある。
◇
鶴田を呼んだ。
「これは何ですか」
「保守処理の記録です」
「なぜ翌日処理になっているんですか」
「……観察のためです」
「何を観察しているんですか」
鶴田は少し間を置いた。
「バグが発生した24時間のデータと、正常処理されたデータを比較しています。バグで生の感情データが漏れ出る24時間のログは、正常処理されたログより幸福度スコアが0.3σ高いんです。数千件のデータで確認しています」
(0.3σ。統計的に有意な差だ)
「それを論文にしようとしたんですか」
「しようとしました」
「なぜしなかったんですか」
「……止められました。保守課の上長です。正確には——その上の人間です」
◇
(課長、かもしれない)
(外れ値データを隠している人間が、0.3σの差異も止めたとすれば)
「これは——上に言うべきですか」
「言えば止められます」
「それでもいいんじゃないですか。データはすでに数千件ある」
「データは私の頭の中にもあります。頭の中は止められません」
今日、一番おかしな言葉を言ったのに、鶴田は全く動じなかった。
◇
「鶴田さん、一つだけ聞かせてください。0.3σの差異が出た理由を、あなたはどう考えていますか」
今日、初めて、鶴田が端末から目を離した。
「……整理されていない状態の感情の方が、幸福度が高い。それが私の仮説です。データ化される前の、まだ生の状態、ということです」
それだけ言って、端末を持ち直した。「計算中です」
◇
スタンプを取り出した。鶴田の「0.3σの差異」を思った。しまった。
所見欄に一行書いた。
「鶴田の24時間遅延——意図的。0.3σの差異データ、上に止められた経緯あり。整理されていない感情の方が幸福度が高い——この仮説が、川瀬案件に何を意味するか。」
「その24時間のログは、対象者に返せますか」
俺が聞くと、鶴田はすぐには答えなかった。
「返す、という発想はありませんでした。恋管のログは、恋管が処理するものなので」
「本人の感情データですよね」
「はい」
「なら、本人のものではないんですか」
鶴田の手が止まった。珍しく、端末の上で指が止まった。
「制度上は、管理主体が恋管です」
「制度上は」
「はい。制度上は」
鶴田はその先を言わなかった。言わなかったことの方が、今日は大きかった。生の感情データが、本人より先に恋管に管理される。川瀬奈緒が言っていた不快さの輪郭が、数字ではなく、権利の問題として見えてきた。
鶴田の仮説は、恋管の根本に触れていた。
整理されていない感情の方が幸福度が高い。もしそれが本当なら、恋管がやっている「整理」は、幸福を上げるどころか、削っている可能性がある。
整理することで楽になる人もいる。だが整理されないからこそ残る幸福もある。川瀬奈緒の11%は、たぶん後者だった。
次話「川瀬さんは、何を待っているんですか」




