第二話「11%の根拠を、教えてもらいに来ました」
一週間後。
インターホンを押した。今日は三秒より少し早く扉が開いた。
「……また来たんですか」
「来ました」
「でしょうね」
川瀬奈緒はそう言って、少しだけ横に避けた。
◇
部屋に上がると、今日もコーヒーが二人分用意されていた。
テーブルの端に、読みかけの文庫本が伏せて置いてある。栞の代わりに、レシートが挟まっていた。翻訳書のようだった。ページの余白に、細い鉛筆で何かが書き込まれている。
生活の途中に、俺が来たのだという気がした。
「前回と同じですね」
「少し違います」
「何がですか」
「先週、ほとんど飲まなかったので。今日は少しだけ濃くしました」
「なぜ」
「飲まない人ほど、味の違いに気づくかと思って」
川瀬奈緒は何でもない顔で席に着いた。
観察されている。
折衝課の職員としてではなく、一人の来客として。
そう思ってから、カップに手を伸ばすのが少し遅れた。
◇
「田村さんのことを、最初に意識したのはいつですか」
「三年前です。職場が同じで、よく同じ時間に帰る人でした」
「告白はしましたか」
「していません」
「なぜですか」
「言葉にしたら、終わる気がしたので」
終わる。
その言葉だけが、少し重く聞こえた。
「PAIRがどうやってスコアを出すか、ご存じですか」
「行動のパターンを見るんでしょう」
「心拍数、移動履歴、視線の滞留時間、購買履歴、睡眠パターン。本人が意識していない反応も含めて解析します」
川瀬奈緒は少し黙った。窓の外のブランコを一瞬見た。今日も、誰も乗っていなかった。
「では私が無意識に、何かをしていたと」
「システムはそう判断しました」
「自分でも気づいていない気持ちを、機械が先に知っていたわけですね」
「そういうことになります」
「不快ですか」と俺は聞いた。
手順書にない質問だった。
「いいえ」と川瀬奈緒は言った。「ただ、おかしいと思っています」
「どのあたりが」
「11%は残りますよね。残るのに、折りに来るんですね」
答えられなかった。
二回目の訪問で、また答えられなかった。
◇
「逆に聞いていいですか。あなたは、なぜ折衝課にいるんですか」
「……人事の仕事をしていました。採用面接で人を見るのが仕事だったので、データで判断することに慣れていました」
「それだけですか」
「今日は、それだけです」
川瀬奈緒は少し首を傾けた。
「毎回、少しずつ答えるんですね」
「そんなつもりはありません」
「そうですか」
川瀬奈緒はカップを持ち上げた。
「コーヒー、冷めないうちにどうぞ。濃くした意味がなくなるので」
先週は、何も言わなかった。
今日は、俺が飲むことを前提にしていた。
半分まで飲んだ。残りは、少し冷めてから飲んだ。冷めても、悪くなかった。
◇
帰り道、駅のホームで端末に通知が来た。
保守課・鶴田からのメッセージだった。
「川瀬案件の接触記録を確認しました。業務上の接触として適切に処理されています。問題ありません。」
鶴田。今日は会っていない。昨日も連絡していない。
なぜ今、確認の連絡が来たのか。
何が、問題なかったのか。
返信しなかった。
端末をしまうと、ホームに電車が滑り込んできた。窓に映った自分の手が、まだ温かいカップを持っていたときの形のまま、軽く丸まっていた。
俺はその手を開いた。
電車のドアが開いて、また閉まった。
乗らなかったわけではない。ただ、一本だけ、見送った。




