第十六話「終了処理を、出してしまった」
午後二時。課長から4度目の督促が来た。
メッセージの文面は短かった。「川瀬案件、今日中に終了処理を提出せよ。最終通告。」
最終通告。三ヶ月目で、初めてその言葉が来た。
◇
端末を開いた。終了処理書類。「川瀬奈緒 / 介入完了 / 調整終了」。
テキストを入力した。「調整終了」と打った。消した。また打った。「調整終了」。
今日は消さなかった。
◇
送信ボタンを見た。
(押せばいい。押して、終わりにすればいい)
(312件、同じようにやってきた。川瀬案件は313件目だ。他の312件と、同じだ)
送信ボタンを押した。
◇
1秒後、後悔した。
理由は説明できなかった。ただ——押した瞬間から、何かが手から離れた感覚があった。書類ではなく、別の何かが。
◇
3分後。川瀬奈緒の番号から着信が来た。
(システムの自動通知が飛んだ。「対象者様の案件が終了となりました」という文面が、今ごろ届いたはずだ)
出るか、出ないか。1秒、考えた。出た。
「……川瀬です」
「……森本です」
沈黙があった。
「終わりにするんですか」
声は普通だった。怒鳴っていなかった。泣いてもいなかった。ただ——普通すぎた。
「……一旦、書類上の処理を——」
「そうですか」
◇
川瀬奈緒の「そうですか」を聞いて、俺は端末の画面を見た。送信済みの書類が、そこにある。
(取り消せるか。手続き上、取り消せるか。送信から10分以内であれば——)
「——取り消せますか」
「え?」
「今送った書類を——取り消す手続きを、確認します」
電話の向こうで、川瀬奈緒が少し間を置いた。
「……折衝さん」
「はい」
「それ、取り消すと——また来るんですか」
◇
三秒。五秒。
「……来ます」
◇
川瀬奈緒は何も言わなかった。10秒くらい、電話の向こうが静かだった。
それから——川瀬奈緒が小さく笑った。電話越しでもわかる笑い方だった。
「……わかりました」
それだけ言って、電話が切れた。
◇
俺はシステムを開いた。送信取り消し手続きを探した。
「送信から10分以内であれば申請可能。ただし課長の承認が必要。」
(最終通告を出した課長に、取り消しを申請する)
申請した。
◇
10分後、課長から内線が来た。
「……なぜ取り消す」
「継続確認が必要です」
「最終通告を出した後だ」
「……わかっています」
沈黙があった。課長は何かを考えているようだった。計算しているというより——思い出しているような間だった。
「承認した」
それだけ言って、内線が切れた。
◇
夕方、デスクを離れようとすると、鶴田が廊下に立っていた。
「取り消し処理、確認しました。業務上の処理として、問題ありません。一点だけ聞いていいですか」
珍しかった。鶴田が聞いてくる前に確認するのは。
「どうぞ」
「取り消した理由を——数値で表現するとしたら、何ですか」
「……わかりません」
「そうですか」
鶴田は端末を持ち直した。
「……計算中のことが、また増えました」
◇
スタンプを取り出した。送信した書類の画面が、まだ頭にあった。しまった。
所見欄に一行書いた。
「終了処理を、送信した。取り消した。川瀬奈緒に『また来る』と言った。自分から言った。理由は——わからない。」
データには残さない。
次話「諦めたいと言いにきた人がいる」




