第百四十九話「スタンプは押さない」
その日の昼、架橋課で桐生に呼ばれた。窓際の席だった。
「お前の最初の案件、覚えてるか。85%で合わなかった二人」
「覚えています」
「女の方から課に連絡があった。再推薦を頼みたいと。お前が外回りで、俺が会った」
「そうでしたか」
「85%の男はもういいそうだ。それでも探すのはやめない、と。合わなかった相手が85%で、次はいくつなら納得するんだと聞いたら——数字は見ないことにした、と言われた」
桐生は窓の方を見た。南向きの窓から、昼の光が机の上まで来ていた。
「架橋課でも外れ値は読めないと言っただろう。あれは、読めない方の顔だった」
「案件としては」
「閉じた」
桐生はそれ以上言わなかった。端末の画面に、面談の日付が二つ並んでいた。一つは先週で、もう一つは、明日だった。
「明日も、面談ですか」
「閉じた案件の後始末だ」
桐生は画面を消した。
「架橋課にスタンプはない。閉じた案件は、閉じたと書くだけだ。書いたかどうかは、誰も見ない」
誰に向けた言葉かは、聞かなかった。
◇
その夜、一人の部屋で、スタンプを取り出した。
配属初日に課長から渡されたスタンプ。312件、一度も押さなかった。折衝課がなくなっても、持っている。
机の上に置いた。横に、白い紙を置いた。何も書かれていない紙。押せば「介入完了」の四文字が、青いインクで残る。
押そうと思えば押せる。三年間、一度も押さなかった。312件、空白のまま。今、誰の案件でもないこの紙に、初めて押すこともできる。手は動く。止めているのは、手ではなかった。
◇
押せなかった理由は、もうわかっている。俺のERRORは100%だった。折れない縁が最初からあった。だから、どの縁にも「完了」と押せなかった。終わったものを、終わったと認められなかった。折れないものを、知っていたから。
その正体が、川瀬さんだった。
わかった。それでも、押さない。
課長は言った。何かが終わったと心から思える日に押せと。その日は、来ない。この縁は終わっていない。始まったばかりだ。127回会って、これからも会う。終わらないものに、終わりの判は押せない。押した瞬間に、嘘になる。
スタンプを紙から離した。白い紙は、白いまま残った。
312件の空白と同じ白だった。意味だけが逆だった。あの白は、終わらせられなかった白。今日の白は、終わらせたくない白。
◇
ただ——いつか。ずっと先の、いつか。
二人で年を取って、色んなことがあって、それでも二人でいて。人生の終わりの近くで。「介入完了」の欄ではなく、余白に押す日が来るかもしれない。「最後まで折れなかった」という印として。終わりの判ではなく、やり遂げた判として。
それは、ずっと先の話だ。今は押さない。今は、会いに行く。
◇
白い紙を、机の引き出しにしまった。捨てなかった。
窓の外は夜だった。明かりの少ない街。子供の声のしない街。それでも、どこかの窓に明かりが灯っていた。誰かが誰かと暮らしている明かりだった。
胸ポケットに、スタンプを戻した。明日も、ここにある。明日も、押さない。
次話「折れなかった縁」




