第百四十八話「また来たんですか」
川瀬さんの部屋に向かった。128回目か、129回目か——もう数えていなかった。鶴田は数えているかもしれない。俺は、やめた。
◇
ここに来る途中、閉校した小学校の跡地を通った。今も資材置き場のままだった。「本校は2064年3月をもって閉校いたしました」という看板も、まだそのままだった。
初めて来た日と、同じ道だった。
マンションのエントランスで、インターホンを押した。
三秒後、扉が開いた。
「また来たんですか」
初めて来た日と、同じ言葉だった。声だけが、違った。
「来ました」
「何回目ですか」
「数えていません」
「私も、やめました」
扉が、大きく開いた。
◇
部屋に上がった。
整頓された本棚。小さなテーブル。窓際の観葉植物。その向こうに公園が見えた。ブランコが二つ、誰もいないまま風に揺れていた。
テーブルの上には、二人分のコーヒーがもう用意されていた。
座る前に、左手で胸ポケットを一度押さえた。
「座る前に、胸ポケットを押さえるんですね」
川瀬さんが言った。初めて来た日と、同じ文言だった。あの日は、中に何が入っているか知らずに言った。今日は、知っていて言った。
「初めて来た日にも、言われました」
「あの日は、中身を知らなかったので」
「今は」
「知っています」
川瀬さんは右側の髪を耳にかけた。視線が一度、俺の胸ポケットに落ちて戻った。
「座ってください。どうせ長くなるので」
「長くなると、なぜわかるんですか」
「127回、長くなりました」
数えるのをやめた人の、正確な数だった。
「128回目も、そうなると」
「違うんですか」
初めて来た日、この問いには答えられなかった。
「違いません」
◇
初めて来た日、俺はここで手順どおりに介入の趣旨を説明した。今日は、説明するものが何もなかった。
コーヒーを飲んだ。川瀬さんはカップを両手で包んでいた。指先は、白くなかった。
「11%って、成功する確率でしたよね」
「はい」
「11%は、0%じゃなかったので」
あの日と同じ言葉が、過去形になっていた。
川瀬さんは窓の方を見た。ブランコには、まだ誰も乗っていなかった。
「折衝さん」と川瀬さんが言った。それから、言い直した。「——森本さん。これからも、来てくれますね」
「来ます。会いたいから、来ます」
川瀬さんは何も言わずに頷いた。薄いカーディガンの肩が、一度だけ上下した。
◇
帰り際、玄関で川瀬さんが聞いた。
「また来るんですか」
「来ます」
「業務なんですね」
「違います」
「でも、コーヒーは次も置いておきます」
「なぜですか」
「三人目だから、ではなくて」
初めて来た日と同じ前置きだった。続きだけが、違った。
「あなたが、今日は全部飲んだので」
テーブルの上のカップは、二つとも空だった。
◇
胸ポケットに手を入れた。
スタンプを取り出す。押す書類は、もうない。「介入完了」の欄も、ない。
押さない。
理由は、わかっていた。
川瀬さんの手が伸びた。スタンプを持った俺の手に重なって、そのまま胸の方へ押し戻した。手のひらが、胸ポケットの上で止まった。布一枚の下に、スタンプがあった。手の温度が、布を通った。
「ここに、あってください」
「押しませんよ」
「知っています。押さないものが、ここにあるのがいいので」
手が、離れた。
胸ポケットに、しまった。
次話「スタンプは押さない」




