第百四十七話「いつもの部屋で」
川瀬さんの部屋に上がった。最近は二人で外に出かけることが増えた。海、植物園、街。色んな場所に行った。でも今日は、いつもの部屋だった。
◇
コーヒーが2人分用意されていた。初めて来た日と、同じだった。本棚。小さなテーブル。窓の外の公園。誰も乗らない、ブランコ。ただ、何もかもが違った。
「いつもの部屋も、いいですね」と川瀬さんが言った。「外に出るのも楽しいけど。やっぱりここが落ち着きます。127回、来た部屋ですからね」
俺は少し驚いた。
「鶴田さんから、聞いたんですか」
「はい。鶴田さん、私にも報告に来ました。『森本さんは127回来ました』って。鶴田さん、私たちのこと本当にちゃんと見ていてくれたんですね」
川瀬さんは、思い出したように続けた。
「あ、スコアのことも聞きました。今週はまたERRORだって。いい方の、ERROR。前に、森本さんが来られなかった週は98%に下がって、数字に戻ってたみたいですけど。今週会えたから、またERRORです」
「鶴田さん、そんなことまで」
「はい。『会うと戻ります』って。なんだか、私の気持ちが数字に出てるみたいで、恥ずかしいです。でも——会えなかった週に2%下がるって、ちょっと嬉しいです。会いたかったのが、数字に出てるってことなので」
会えない週は98%、会えば100%。針は、二人の距離を、2%刻みで測っていた。
◇
「127回」と川瀬さんが言った。「最初は、折りに来る回数でした。途中から業務じゃなくなって。今は——会いたいから、来る回数です。同じ部屋に127回。意味が全部、変わりましたね」
同じ部屋に127回。折りに来るから、会いに来るへ。意味が、変わった。
「川瀬さん。128回目も、来ます」
「129回目も?」
「来ます。ずっと」
川瀬さんは笑った。
「数えるの、やめないんですか」
「数えるのは、鶴田さんに任せます。俺は、ただ来ます。数えなくても、来ます。数えていたのは、確かめたかったからです。何回来たか、記録に残したかった。でも今は——記録に残らなくても、来た事実が消えないと、知っているので。数える必要が、なくなりました」
「記録に残らなくても、消えない」
「はい。127回が、それを教えてくれました」
◇
コーヒーを飲んだ。最初の頃の濃さに、戻っていた。揺れて、一周して、帰ってきた濃さ。この部屋で127回、コーヒーを飲んだ。最初は彼女が淹れ、途中から半分ずつ淹れ、今もそうしている。同じ部屋、同じコーヒー、同じ窓の外。何もかも同じなのに、最初の日とは、まるで違う場所にいる気がした。場所は変わっていない。二人が、変わった。
窓の外のブランコを見た。
「ブランコ、まだ誰も乗りませんね」
「乗りませんね。ずっと、誰も」
「2068年ですからね」
「2068年ですからね」
初めの頃にした会話だった。「2068年ですからね」。あの頃は、諦めの相槌だった。子供の少ない時代だから、仕方ない。低い確率だから、仕方ない。そういう諦めの言葉だった。ただ今日の声は、違った。同じ言葉が、諦めではなく、希望の手前の何かになっていた。
「でも、いつかあのブランコに誰かが乗る日が来るかもしれません」と川瀬さんが言った。「子供が。出生率0.5でも、ゼロじゃないので。0.5は0じゃない。11%は0%じゃない。同じですね」
0.5は0じゃない。11%は0%じゃない。彼女の口癖が、街全体に広がっていた。誰も乗らないブランコのある、子供の少ない街。それでも、ゼロではない。どこかで、誰かが、低い確率を諦めずにいる。外れ値カップルのように。俺と川瀬さんのように。低い数字の底に、いつも、ゼロじゃない何かが沈んでいた。
◇
夜のホームは、空いていた。
同じ言葉、同じ景色、違う声。
電車が来た。今日も、乗った。
次話「また来たんですか」




