第百四十五話「川瀬さんが聞いた」
植物園に行く三日前、榊が架橋課に来た。
窓のある部屋に、黒い手帳の男が立っていた。榊は席まで来なかった。入口の壁の前で止まり、俺の方が歩いた。
「服務規程照会の結果です」
榊は用紙を一枚出した。文面は一行だった。
「不問。記録には残しません」
「残さない、というのは」
「届出を受理した事実だけが残ります。中身は残しません。川瀬奈緒さんの側も、同じです」
榊は手帳を開いた。書く前に、こちらを見た。
「不服は、ありますか」
一度しか、聞かなかった。
「ありません」
榊は短く書いた。手帳を閉じて、閉じたまま言った。
「私は四百十二回押しました。一度も、こういう照会を受けませんでした」
声に抑揚はなかった。
「羨ましいとは、言いません」
榊は廊下へ出た。それきりだった。
◇
植物園の帰り道。駅までの道で、川瀬さんが聞いた。
「森本さん。私にも紙が来ました。不問って、一行だけ」
「俺にも来ました」
「その前の紙には、相手の欄に、森本さんの名前を書きました。書いたら、聞きたくなったんです」
川瀬さんは右側の髪を耳にかけた。
「あのスタンプ、まだ持っているんですか」
俺は胸ポケットに手を当てた。
「持っています」
「折衝課、なくなったのに?」
「課長が言ったんです。いつか押したくなる日が来ると。だから持っていろと」
「押したら、どうなるんですか」
「『介入完了』の意味です。案件が終わったときに押すものでした。俺は312件、一度も押せませんでした。終わったと、認められなかったので」
「私の案件も?」
「川瀬さんの案件は、折れないまま凍結されました。終わっていません。最初の頃、川瀬さんの書類に何度かスタンプを近づけました。『介入完了』の欄の上に。でも、押せませんでした。手が止まりました」
「なぜですか」
「川瀬さんとの時間が終わるのが、嫌だったんだと思います。今ならわかります。理由はわからないまま、手だけが知っていました」
「じゃあ、そのスタンプ、いつ押すんですか」
三秒。五秒。
「……俺と川瀬さんの縁が、終わったときに」
川瀬さんの足が止まった。視線が横へ逃げた。
「いえ——」
俺は言い直した。
「違います。終わったときじゃない。俺と川瀬さんの縁は終わらないので。100%なので。だから、あのスタンプは、たぶん一生押せません」
川瀬さんは少しの間、何も言わなかった。それから笑った。
「一生押せないスタンプを持ち歩くんですね。変ですね。でも——いいです、それ。私との縁が終わらないから押せない。だったら、その押せないスタンプは、私への一番長い約束みたいです」
「一番長い約束」
「他の人は、案件が終わったら押すんですよね。終わった証拠に。森本さんは、終わらない証拠に押さない。押さないことが証拠になるなんて、逆ですね」
「いい考え方ですね」
「でしょう?」
川瀬さんはまた歩き出した。
◇
ホームで、スタンプを出して見た。
古い事務用品だった。配属初日に渡されたとき、課長は「案件が終わったら押せ」と言った。榊はそれを四百十二回押した。俺は一度も押さなかった。同じ物が、今日から別の名前を持つ。
胸ポケットにしまった。電車が来た。
次話「鶴田からの報告」




