第百四十四話「二人で出かける」
休みの日、二人で出かけた。今度は海じゃなかった。川瀬さんが行きたいと言った、植物園だった。
◇
「植物園、好きなんですか」
「好きです。緑が多いので。最近外に出るようになって、緑のある場所に行きたくて」
秋の植物園は、温室が中心だった。冷えてきた外と、暖かい温室の対比が、心地よかった。
「森本さん、植物詳しいですか」
「いえ、全然」
「私も。でも見ているだけで、落ち着きます」
二人で温室を歩いた。緑の中を、ゆっくりと。
人が多い通路で、川瀬さんの肩が少し俺に寄った。避けるほどではない距離だった。離れるほどでもない距離だった。
「森本さん」
「はい」
「手、つないでもいいですか。迷子防止です」
「植物園で、ですか」
「温室は広いので」
川瀬さんは真面目な顔で言った。真面目な顔をして、少しだけ耳が赤かった。
手をつないだ。業務上の接触として処理されることは、もうなかった。誰かが記録することもない。鶴田が数えているかもしれないが、もうそれは業務ログではない。
手の温度だけが、こちらに残った。
◇
「森本さん。私、こういう時間が欲しかったんです」
「こういう時間?」
「誰かと一緒に、ただ歩く時間。目的もなく、ただ緑を見て歩く時間。ずっと、一人だったので」
川瀬さんは少し笑った。
「11%だった頃は、こんな時間想像もできませんでした。私ずっと一人でブランコを見て、生きていくんだと思っていました。誰かと植物園を歩くなんて」
◇
温室の中は、季節が止まっていた。外は秋の終わりなのに、温室の中では、夏の緑が茂っていた。ガラス一枚隔てて、別の季節がある。折衝課の窓のなさを、ふと思った。あの部屋には外がなかった。ここは、ガラス越しに外がある。同じ閉じた空間でも、外が見えるか見えないかで、まるで違った。温室は、外を見ながら、別の季節を生きる場所だった。
温室の奥に、小さなベンチがあった。二人で座った。公園のベンチとは違った。あのベンチは、業務上の接触の場所だった。インタビューをして、手順書の質問をして、答えられない質問をされる場所。このベンチは——ただ二人で座る場所だった。質問も、手順書も、業務もない。ただ、隣に座る。それだけのベンチだった。
「森本さん。私、幸せです」
川瀬さんは、はっきり言った。
「これは自分で気づいている感情です。PAIRに推定してもらわなくても、わかります。今、私、幸せです」
◇
「俺も、です」と俺は言った。
「森本さんも?」
「はい。俺も——幸せです」
言ってから、自分で少し驚いた。データで判断する人間だった俺が、自分の感情を言葉にした。一年前なら、「幸福度スコアは測定していません」と言っていただろう。自分の幸せすら、データで答えようとする人間だった。今は、データではなく、自分で「幸せだ」と言えた。測るのではなく、感じて、言葉にした。
「森本さん、幸せって言葉、使うんですね」
「初めて、使ったかもしれません」
「似合わないですか?」
「いえ。ただ——慣れていないだけです」
川瀬さんは笑った。
「これから、慣れますよ。たくさん使うことになるので」
◇
帰りの電車で、窓に自分の顔が映った。秋の夜で、窓の外は暗く、ガラスが鏡になっていた。
慣れない言葉を一つ、口にしてきた男の顔だった。「幸せ」と言った顔。一年前の自分が見たら、誰だかわからないかもしれない。データで人を測り、自分の感情も測ろうとし、スタンプを押せずにいた男。その男が今、植物園の帰りに、幸せだと言っている。隣には、川瀬さんがいた。窓に、二人の顔が並んで映っていた。悪くなかった。むしろ——ずっと、こうなりたかった気がした。気づいていなかっただけで。
次話「川瀬さんが聞いた」




