第百四十二話「川瀬さんの新しい生活」
川瀬さんの会社勤めが、軌道に乗ってきた。週3日の出社。同僚との昼食。新しい生活。
◇
「最近、どうですか」
「楽しいです。会社の人と話すの、慣れてきました。森本さん、私、最近ブランコをあまり見なくなりました」
「ブランコ?」
「公園の、誰も乗らないブランコ。前は毎日見ていたのに。最近、見る時間が減りました。外に出ているからです。家にいる時間が減って。ブランコを見る時間も、減りました」
◇
「寂しいですか」と俺は聞いた。「ブランコを、見なくなって」
川瀬さんは少し考えた。
「……少し、寂しいです。あのブランコと長い時間を過ごしたので。誰も乗らないブランコを見ながら、田村さんを待って、それから何も待たなくなって。あのブランコは、私のいちばん寂しかった時間を、全部知っています。でも——ブランコを見ていた頃の私より、今の私の方が、好きです」
川瀬さんは晴れた顔で笑った。
「ブランコを見て田村さんのことを考えて。何も考えないで、ただ見て。あの頃は、止まっていました。今は、動いています。会社に行って、人と話して、森本さんと会って」
◇
川瀬さんはコーヒーを淹れた。今日も、いつもの濃さだった。最初の頃、長く居てもらうために濃く淹れていたコーヒー。途中で薄くなって、また濃くなって、今は固定された濃さ。引き留める必要も、揺れる必要も、もうなかった。ただ、二人で飲むための濃さに、落ち着いていた。
「コーヒーの濃さ、変わらなくなりましたね」と俺は言った。
「気づいてました? 最近、迷わなくなったんです。濃くしたり薄くしたり。森本さんが来るのが当たり前になったので。引き留めなくても、来てくれるので」
来るのが当たり前。一年前は、来るたびに「また来たんですか」と確認されていた。今は、来るのが前提になっていた。
「川瀬さん。俺と出会わなかったら、川瀬さんは今もブランコを見ていましたか」
川瀬さんは少し間を置いた。
「……見ていたと思います。ずっと11%にしがみついて。ブランコを、見ながら」
「俺が、折りに来たから」
「森本さんが折りに来て、結局折れなくて。何度も来てくれて。それで私、動き始めました」
川瀬さんは俺を見た。
「折りに来る人が、私を動かしたんです。皮肉ですよね。でも、いい皮肉です」
「折衝課に、初めて感謝しました」
川瀬さんは、声を出して笑った。
「折衝課、なくなっちゃいましたけどね」
「なくなりました。でも——なくなる前に、一つだけいい仕事をしました。川瀬さんを、動かした」
「一件だけ、ですか」
「一件だけです。312件折りに行って、自分の手では一件も折れなくて。でも、一件だけ、育てました。打率としては最悪です」
川瀬さんは笑った。「でも、その一件が私で、よかったです」
「最悪の打率の、唯一の一件ですか」
「はい。三百件以上の失敗の中の、たった一つの成功。それが私。なんか、特別な感じがします」
特別な一件。折れなかった、唯一の縁。打率としては最悪でも、その一件があったから、全部が意味を持った。
川瀬さんはカップを置いた。
「森本さん。さっき『育てました』って、過去形で言いましたね」
「……言いました」
「終わった案件みたいに言わないでください。もし『もう来なくていい』なんて言い出したら——罰がありますからね」
次話「最後の訪問になるかもしれない日」




