第百四十一話「折衝課のあった場所」
外回りの帰りに、恋管に寄った。架橋課の書類を一枚出すだけの用だった。帰り際、折衝課のあった場所を見に行った。
◇
窓のないフロアは改装されて、保管室になっていた。書類を入れる棚が壁に沿って並んでいた。誰もいなかった。
ここで312件、縁を折りに来た。書類の上では全部終わった。俺の手で折れたと思えたものは、一つもなかった。縁をしまう部屋が、紙をしまう部屋になった。どちらも、何かをしまう部屋だった。
壁に、ネジの跡が四つ残っていた。「折衝課」のプレートを留めていた跡。看板はなくなっても、留めていた跡は残る。
背後で、扉が開いた。
◇
黒い手帳を持った男が立っていた。四十代の後半。低い声。
「森本遼さん。架橋課で、ここだと聞きました」
本部監査部の榊だった。
「十年前まで、私の席もこの部屋にありました」
榊はそれだけ言って、棚の間を通り、俺の前に立った。手帳を開いた。
「服務規程の照会です。架橋課職員と、元対象者の交際について」
榊は用紙を一枚出した。私的関係の届出。相手の氏名を書く欄があった。
「架橋課の職員が元対象者と私的な関係を持つ場合、届出が要ります。届出がなければ、配置転換の対象になります。届出があれば——原則として、架橋課のままです」
「届け出なければ、どうなりますか」
「照会はここで終わります。配置転換の先では、私的関係は問われません」
榊の声には抑揚がなかった。
「押せる人間が制度を支えます。押せない人間は、制度の外で幸福になればいい。私はそう思っています。この用紙は、内側に残るための手続きです。どちらを選んでも、私は同じように書きます」
榊は手帳を軽く持ち上げた。
◇
用紙を見た。
一年近く、川瀬さんの名前を書いたのは案件番号の横だけだった。訪問記録。所見欄。凍結申請。書くたびに、その四文字は案件だった。
今日の欄には、案件番号を書く場所がなかった。
榊はペンを差し出したまま、待っていた。急かさなかった。
「届け出ますか。届け出ますか」
二度、同じ声で聞いた。
「書きます」
榊は手帳に短く何かを書いた。それから、用紙をこちらへ向けた。
俺は欄に、川瀬さんの名前を書いた。一年近く、案件番号の横にだけ書いてきた四文字だった。今日は、その横に何もなかった。
榊は用紙を受け取り、目を通した。
「受理します」
それだけだった。反対も、感想もなかった。
「同じ照会が、川瀬奈緒さんにも行きます。元対象者の側の届出です。明日、書面で」
「彼女が、書かなかったら」
「それは、彼女が決めることです」
榊は手帳を閉じた。
「私はこの部屋で、四百十二回押しました。ここが保管室になってから来たのは、今日が初めてです」
榊は棚の間を戻り、扉の方へ歩いた。振り返らなかった。扉が閉まった。
◇
保管室には、窓がなかった。俺一人が残った。
この部屋で、彼女の名前を何十回も書いた。全部、折るための書類だった。今日初めて、そうではない欄に書いた。
壁のネジ跡を、もう一度見た。四つ。
左手で、胸ポケットを一度押さえた。スタンプは、そこにあった。
保管室を出た。廊下は明るかった。
次話「川瀬さんの新しい生活」




