第十四話「ザイアンス係数が、閾値を超えました」
翌朝、出勤すると鶴田がデスクの前で待っていた。今日は端末ではなく、紙を持っていた。A4が2枚。
「川瀬さんとのザイアンス係数が、有意差発現閾値を超えました」
「……ザイアンス係数」
「単純接触効果の指標です。ザイアンスの研究は1968年に発表されたもので——」
「知っています。単純接触効果のことは知っています」
「では、係数のご説明は不要ですか」
「……聞きます」
◇
「繰り返し接触することで、好意が生まれる効果です」と鶴田は言った。「業務上の接触は算出対象外ですが——」
「対象外です」
「はい、対象外です。ただし対象外であることと、効果が発生しないことは——」
「別の話ですか」
「別の話です」
鶴田は紙を差し出した。
「現在の接触頻度と継続時間から、係数を算出しました。業務上の接触を仮に対象に含めた場合の試算ですが——」
「なぜ試算するんですか。対象外だと言った」
「確認のためです」
「何を確認しているんですか」
「……計算中のことがあります」
「何の計算ですか」
「それも計算中です」
◇
昼食の時間、食堂に入ると鶴田がトレーを持ったまま入口に立っていた。また立っていた。
「今日もどこに座るか計算していますか」
「いいえ。今日は結論が出ています」
「どこに座るんですか」
「森本さんの向かい、もしくは隣です」
「なぜですか」
「観察対象として、最も変数が多い人間です」
「……俺のことを観察しているんですか」
「計算中です」
◇
向かいに座った鶴田は、弁当を3分で食べ終えた。
「川瀬さんは、昼食は何を食べているんでしょう」
「なぜそれを聞くんですか」
「ザイアンス係数の計算に、生活習慣データを組み込もうとしていて——保守課のアクセス権限では取れない情報があります」
「取れないなら、計算に組み込めないんじゃないですか」
「欠損値として処理できます」
「欠損値として処理してください」
「……そうします」
3秒の沈黙。
「川瀬さんのコーヒーの濃さって——」
「計算中にしてください」
鶴田は端末を開いた。「計算中にします」
◇
別の案件が1件入った。午後に訪問した。成立確率17%。対象者は静かな部屋で待っていて、俺の説明を最後まで聞いて、「わかりました」と言った。
「わかりました、というのは」
「諦めます。聞かれるより先に諦めた方が、傷が浅いと思って」
俺は何も言えなかった。書類を閉じた。スタンプを取り出した。——押せなかった。しまった。
(17%でも諦める人間がいる。11%でも諦めない人間がいる)
(何が違うのか、今日も答えは出なかった)
ただ、一つだけ気づいた。17%の対象者は、俺が来る前に諦めていた。先に諦めれば傷が浅い、と言った。川瀬奈緒は逆だ。俺が来ても諦めない。傷が深くなるのを承知で、諦めない。諦めの早さは、傷の浅さと引き換えだ。彼女は浅い傷より、深いままの可能性を選んでいた。
◇
所見欄に一行書いた。
「鶴田、ザイアンス係数の試算を提示。係数の意味、わかっている。別案件——17%・即日終了。」
書きながら、ザイアンス係数の紙を机の引き出しにしまった。対象外のはずの数字だった。対象外の数字ほど、よく当たる気がした。
次話「今日は、少しだけ答えます」




