第百三十六話「川瀬さんの初出社」
川瀬さんの、初出社の日。俺は架橋課の仕事の合間に、川瀬さんのことを考えていた。
◇
夕方、川瀬さんから連絡が来た。
「初出社、終わりました。緊張したけど、楽しかったです」
俺は返信した。「お疲れ様でした。よかったですね」
すぐに返信が来た。
「会社の人とお昼を食べました。一人じゃない昼食、久しぶりでした」
一人じゃない昼食。鶴田がいつも一人で、37分悩んで食べている、あの食堂を思った。川瀬さんは、一人じゃなくなった。ずっと一人で部屋で食べていた人が、誰かと食べるようになった。それは、スコアには出ない変化だった。でも、たぶん、いちばん大きな変化だった。
◇
その日の夜、川瀬さんの部屋に寄った。一年前なら、夜に寄るなんて、業務として考えられなかった。今は、ただ、初出社のことを聞きたかった。
「初出社、どうでしたか」
「楽しかったです。でも疲れました。久しぶりに人とたくさん話したので。森本さん、聞いてください。お昼に同僚の人が、私に聞いたんです。『川瀬さん、彼氏とかいるんですか』って」
俺は少し間を置いた。
「なんて、答えたんですか」
川瀬さんは笑いをこらえる顔をした。
「『いるような、いないような』って、答えました。だって森本さん、私の何ですか?」
◇
俺は川瀬さんの何だろう。折衝課の担当でもなくなった。架橋課の職員でもない。ただの森本。会いたいから、会いに行く人。
「……難しい質問ですね。肩書きが、ないので」
答えられなかった。彼氏でもない。担当でもない。友人とも違う。一年かけて積み上げた関係に、名前がなかった。名前のないものを、同僚にどう説明すればいいのか、川瀬さんも困ったのだろう。「いるような、いないような」は、正確な答えだった。
「肩書き、いりますか」
「いらないと、前に言われました」
川瀬さんは満足そうに笑った。
「じゃあ肩書きなしで、いいです。ただ——『いるような、いないような』じゃなくて。次に聞かれたら、ちゃんと答えたいです」
「なんて、答えるんですか」
「それは——森本さんが、決めてください」
◇
俺が決める。川瀬さんの何になるかを。データじゃなくて、自分で。
「少し、考えさせてください」
「はい。ゆっくりで、いいです。100%はずっと続くので。急がなくて、いいです」
川瀬さんは笑った。
◇
帰り道、宿題を一つ抱えて、電車に乗った。
川瀬さんの何になるか。データの出ない問いだった。PAIRは100%と答えた。でもそれは「成立確率」であって、「俺が彼女の何か」という問いの答えではなかった。データは確率を出す。でも、二人の関係に名前をつけるのは、データの仕事ではなかった。それは、俺の仕事だった。
一年前なら、こういう問いに、答えを出せなかった。データのない問いは、苦手だった。今は、違った。データのない問いの方が、大事なものを含んでいると、わかるようになっていた。
悪くない宿題だった。むしろ、人生で一番、考える価値のある宿題かもしれなかった。窓の外を、夜の街が流れていった。電車は、ちゃんと、前へ走っていた。
次話「俺が決める」




