第百三十四話「川瀬さんが、外に出る」
川瀬さんの部屋に行くと、玄関に靴が出ていた。川瀬さんは、いつものカーディガンを着ていなかった。
◇
「どこか、行くんですか」
「はい。翻訳の会社の面接に。ずっと家で一人で翻訳していたんですが。会社に行って働こうかと思って」
川瀬さんが、外で働く。ずっと家にいた人が。
「なぜ、急に」
「急じゃ、ないです。少しずつ思っていました。森本さんと海に行ってから——もっと外に出たくなったので。私、ずっと窓越しに世界を見ていたなって。ブランコも、空も、全部窓の中から。海は、窓の外で、直接見ました。全然、違いました」
川瀬さんは右の髪を耳にかけた。
「すみません。今日は、コーヒーを出す時間がないので」
「構いません」
◇
「面接、何時ですか」
「二時です。少し早く出ます。道に迷うといけないので」
「緊張しますか」
「します。3年以上、家で一人で働いていたので。でも——緊張するってことは、何かが始まるってことですよね。折られそうになったとき、緊張したのと、似ています。あのときも、何かが始まりました」
「大丈夫だと思います。川瀬さん、丁寧に言葉を選ぶので。翻訳に向いています」
「それ、前にも言ってくれましたね。公園で」
「覚えていたんですね」
「覚えてます。森本さんに初めて褒められたので」
◇
川瀬さんは玄関で靴を履いた。空は朝から灰色だった。俺は傘立ての折りたたみ傘を抜いて、手に持った。
「面接、行ってきます」
「はい。応援しています」
「森本さんが応援してくれるなら、大丈夫な気がします」
「俺は何もしていませんが」
「いえ。森本さんが来てくれるから——私、外に出られるようになったんです。誰かが来てくれると、外に出られる。変ですよね」
川瀬さんは窓の方を見て、それから俺を見た。
「折りに来て、私の縁を育てて。今度は私を外に連れ出して。森本さんって本当に、私を前に進めてくれますね」
ドアが閉まった。
◇
俺は窓辺に座った。座る前に、左手が胸ポケットに触れた。公園のブランコが二つ、誰も乗せずに揺れていた。
ブランコを見る人だった川瀬さんは、もうここにいない。今ごろ駅へ向かっている。俺が百回近く通ったこの部屋の窓は、いつのまにか、彼女が外へ出ていくための窓になっていた。
右手に、折りたたみ傘があった。
渡していなかった。
◇
扉を閉めた。オートロックの音がした。階段を下りた。公園を抜けたところで、歩くのをやめた。走った。革靴の底が路面を打ち、傘を握った拳が振れ、息が喉の奥で鳴った。折衝課の三年で、対象者のために走ったことは一度もなかった。駅の階段を二段ずつ上がった。
ホームに出たとき、ドアの閉まる音がした。
電車が出ていった。ホームに残ったのは、俺と、傘を持っていない数人だった。川瀬さんはいなかった。
◇
携帯が震えた。川瀬さんからだった。
「傘、忘れました。駅の売店で買います。大丈夫です」
俺は傘を握ったまま、それを読み返した。
最初に会った日、この人は「11%は0%じゃない」と言った。今日は「大丈夫です」と言って、自分で傘を買う。誰かが来るのを待たずに。
「行ってらっしゃい」
それだけ打って、送った。
雨が、ホームの屋根を叩きはじめた。
俺は川瀬さんの傘を開かずに、鞄に入れた。次に来たとき、返せばいい。
次話「面接の結果」




