第百三十二話「川瀬さんと出かける」
ある日、川瀬さんを外に誘った。いつもは部屋か公園だった。今日は、もっと遠くに行こうと思った。部屋でも公園でもない場所で、川瀬さんと過ごしたかった。
◇
「出かけませんか。部屋でも公園でもない場所に」
川瀬さんは少し驚いた顔をした。
「どこに行くんですか」
「決めていません。ただ——川瀬さん、最近外に出ていますか」
「……あまり。仕事も家でできるので。買い物くらいしか、外に出ません」
「じゃあ、出かけましょう」
川瀬さんは少しの間、迷った顔をした。それから、頷いた。
「はい。出かけます」
◇
二人で電車に乗った。川瀬さんと電車に乗るのは、初めてだった。一年近く、いつも一人でこの路線に乗っていた。折りに行く行きと、確かめられないものを抱えた帰り。今日は、隣に川瀬さんがいた。窓の外を、街が流れていった。子供の姿は、少なかった。いつもの、街だった。
「どこに向かっているんですか」
「海が、見える場所に。前に調べたんです。この路線で行ける海が」
「いつ調べたんですか」
「……架橋課に移ってから。川瀬さんとどこかに行きたいと思って。行き先を探していたら、海が、出てきました」
川瀬さんは少し笑った。何も言わなかったが、その笑いが、嬉しそうだった。
◇
海が見える駅で降りた。夏の終わりの海だった。人は、少なかった。風は、もう秋のものだった。二人で海を見た。
「久しぶりです、海」
「俺も、です」
「森本さん、海好きなんですか」
「……わかりません。ただ、川瀬さんと見たかったんです」
川瀬さんは少しの間、何も言わなかった。それから海を見たまま言った。
「私も、森本さんと見られて良かったです」
◇
波が寄せて引いた。寄せて、引いた。誰も乗らないブランコのように、波も、ずっと動いていた。ただブランコは同じ場所で揺れるだけだが、波は、毎回違う形で寄せてきた。
「ブランコじゃない景色を見るの、久しぶりです」と川瀬さんが言った。「私ずっと部屋の窓から、公園のブランコを見ていました。誰も乗らないブランコを。あれを見て田村さんのことを考えて。それから何も考えないで、ただ見て。同じ場所で揺れるブランコを、ずっと。でも今日は海を見ています。ブランコじゃなくて。森本さんと、一緒に」
川瀬さんは俺を見た。
「私、前に進んでいるんですね」
◇
部屋の窓から、海へ。ブランコから、波へ。揺れるだけのものから、寄せてくるものへ。一人から、二人へ。
「川瀬さん。俺も前に進んでいます」
「折衝課から、架橋課へ?」
「それもあります。でも——折る側から繋げる側へ、というより。川瀬さんと一緒に前に進んでいます。それが一番確かです」
川瀬さんは笑った。波の音が、聞こえた。夏の終わりの海の、低い波の音だった。
◇
帰りの電車で、海を見た川瀬さんの横顔を思い返した。
ずっと部屋の窓から、誰も乗らないブランコだけを見ていた人が、今日は海を見ていた。動かない景色から、動く波へ。彼女は確かに前に進んでいて、俺もその隣で同じ方向に進んでいた。折る側から繋げる側へ移ったことより、誰かと同じ景色を見たいと思えたことの方が、俺にとっては大きな変化だった。隣の席で、川瀬さんが窓の外を見ていた。海は、もう見えなかった。ただ、見た記憶だけが、二人の間に、残っていた。
次話「スコアが、ずっと100%のままで」




