第百三十話「100%の、その先」
川瀬さんの部屋に上がった。最近、二人の会話は変わってきた。業務の話も、ERRORの話も、100%の話もしなくなった。ただ普通の話をするようになった。
◇
「今日、翻訳の仕事で面白い文章がありました」と川瀬さんが言った。「AIの感情認識システムの仕様書です。『人間の感情は表情・声・心拍などの複数の信号から推定される』って。でも、こうも書いてあって。『ただし推定には限界がある。人間が自分でも気づいていない感情は、推定できない』って」
「自分でも、気づいていない感情」
「はい。私それを訳しながら、思ったんです。田村さんへの気持ちが本当は何だったのか、今でもわからないんです。自分でも、気づいていなかったのかもしれない」
◇
「PAIRは、川瀬さんの気づいていない気持ちを見ていました」と俺は言った。「川瀬さんが無意識にしていたことを解析して、11%を出した。視線とか、声の調子とか、誰に何度会うかとか。本人が気づいていない信号を、PAIRは拾います」
「でもその11%が何だったのか——私にはわからないんです。田村さんへの恋だったのか、別の何かだったのか」
「わからなくていいんじゃないですか。11%が何だったかはわからない。でも100%になった。それは確かです。今、川瀬さんが何を感じているか——それが、大事なんじゃないですか。過去の11%の正体より、今の気持ちの方が」
「過去より、今ですか」
「はい。データは過去の記録です。今の気持ちは、データに出る前のものです。いちばん新しいものは、いつもデータより、先にあります」
◇
川瀬さんは少しの間、俺を見ていた。
「今、私が感じていること。……言っても、いいですか」
「どうぞ」
川瀬さんが、自分から何かを言おうとしている。一年前は、聞けない質問を抱えて、ずっと言えずにいた人だった。今日は、自分から言おうとしていた。言える人に、変わっていた。
川瀬さんは少し間を置いた。
「森本さんが来ると——嬉しいです」
川瀬さんは今日、言い直さなかった。
「これは自分で気づいている感情です。PAIRに推定してもらわなくても、わかります。森本さんが来ると嬉しい。それだけは、確かです」
◇
「川瀬さん。俺も——川瀬さんに会うと」
言いかけた。いつか「答えます」と言って止まった言葉だった。今日は、止まらなかった。
「会うと、ほっとします。一日の中で、川瀬さんに会う時間が一番——一番、自分でいられる気がします」
川瀬さんは少し笑った。今までで一番、穏やかな笑い方だった。
「折衝課の森本でも架橋課の森本でもなくて。ただの森本でいられます。川瀬さんの前では」
「私も、です。森本さんの前では、11%でも100%でもなくて、ただの私でいられます」
数字でいるのは、疲れる。11%の女、100%の相手。ずっと数字で呼ばれてきた。お互いの前でだけ、その数字を脱げる。ただの森本と、ただの私。それが、二人がたどり着いた場所だった。
二人でコーヒーを飲んだ。いつもの、濃さだった。最初の頃は揺れていた濃さが、今は固定されていた。揺れる必要が、もうなかった。
次話「鶴田の研究」




