第百二十九話「課長と、相沢さん」
ある日、課長から連絡が来た。恋管を辞めた後、初めての連絡だった。
「相沢に、会ってきた」
短いメッセージだった。
◇
俺は課長に会いに行った。恋管の近くの喫茶店だった。課長は私服だった。三年見てきたスーツ姿とは、違った。
「相沢さんに、会ったんですね。どうでしたか」
課長はコーヒーを飲んだ。
「……普通だった。普通に年を取っていた。普通に、幸せそうだった」
「100%のことは」
「言わなかった。言うつもりもなかった。ただ顔を見たかっただけだ。20年、顔も見ずにいた。声も聞かずにいた。同じ恋管にいた頃の相沢しか、知らなかった。今の相沢を、一度見ておきたかった。それだけだ」
◇
「相沢さんは、課長のことを覚えていましたか」
「覚えていた。『お久しぶりですね』と。それだけだ。20年前の同僚として、覚えていた。それで、十分だった」
課長は窓の外を見た。喫茶店には、窓があった。
「20年、確かめなかった。それはもう取り返しがつかない。でも——顔を見ることはできた。20年ぶりに、声を聞けた」
「けじめが、つきましたか」
「つかない。けじめなんて、つかない。ただ——少し、軽くなった。20年抱えていたものが、少し」
◇
「課長。相沢さんは100%だったことを知らないまま、幸せです。課長は知っていて、20年苦しみました。どちらが、良かったんでしょうか」
課長は少し間を置いた。
「……わからん。ただ一つ言えるのは——俺はもし20年前に戻れるなら、確かめる。苦しんでも、確かめる。知らないまま幸せでいるより、知って苦しむ方を選ぶ」
「なぜですか」
「知らないまま幸せなのは——本当の幸せじゃない気がするからだ。知った上で選んだ幸せの方が、本物だ。相沢は知らないまま幸せだ。それでいい。あいつはそれを選んだ。でも俺がもし当事者なら——知って選びたい。知らないで手に入れた幸せは、たまたまだ。知って選んだ幸せは、自分のものだ」
知った上で、選んだ幸せ。俺と川瀬さんは、知った上で選んでいる。たまたまではなく、自分のものとして。
◇
「お前は、確かめたな」と課長が言った。
その声に、羨望はもうなかった。前に川瀬さんが「課長は羨ましそうだった」と言った。今日の課長は、羨ましそうではなかった。相沢に会って、何かが片付いたあとの声だった。
「はい」
「ならお前は、本物の幸せを選べる。知った上で。俺みたいに、ならない」
「課長。ありがとうございました」
「もう礼はいい。お前はもう俺の部下じゃない。ただの知り合いだ」
課長は少し笑った。
「たまには、コーヒーくらい飲もう」
「はい」
◇
喫茶店を出て、別れた。
課長の私服の後ろ姿は、20年分のスーツを脱いだぶんだけ、少し軽そうに見えた。知らないまま幸せな相沢さんと、知って苦しんだ課長。どちらが良かったかは、誰にもわからない。ただ課長は「知った上で選んだ幸せが本物だ」と言った。それは20年確かめなかった男が、20年かけてたどり着いた、たった一つの結論だった。そして俺は——その結論を、課長より20年早く、選べたのだった。
次話「100%の、その先」




