第百二十二話「押さない、インターホン」
封筒が一通、戻ってきた。
宛先不明。転居。郵便局の判が、斜めに押してあった。
二十三組への通知は、一組につき二通出している。一人ずつだ。七組のうち、一行で返事をよこした組があった。今は、今の家族を大切にしたいので、知りません。あの一行は、二通のうちの片方への返事だった。
もう片方が、戻ってきた。
新しい住所は、台帳を引けばすぐに出た。恋管の台帳は、転居を見逃さない。端末で一行差し替えれば、明日には届く。
届けば、どうなるか。
通知の一行目には、二人の名前が並んでいる。片方に届けば、二人に届く。知りません、と書いた人の一行は、もう片方の側から破られる。
届けなければ、届かなかったことになる。
どちらも、机の上で決められた。決めたくなかった。封筒を鞄に入れて、外に出た。
課長は封筒と俺を見て、何も言わなかった。
◇
駅を出て、地図を一度だけ見た。あとは見ない。
312件、同じ順番で歩いてきた。速さを変えない。角で立ち止まらない。門の前で一度だけ止まる。折りに行く道は、どこも似ている。似せていたのは、たぶん俺の方だ。
折るための書類を持たずに人の家へ向かうのは、初めてだった。道順だけが、同じだった。
坂があった。途中から階段に変わる。段を数えて、途中でやめた。
住宅地の中ほどに、その家はあった。
表札の姓は、台帳と同じだった。その横に、小さく別の名が一つ。
二階の物干しに、洗濯物が出ていた。大きいシャツが二枚と、その半分もない小さいのが一枚。風で、小さい方だけがよく動いた。
中から、高い声がした。言葉は聞き取れなかった。顔は、見なかった。
インターホンの前に立った。
手を上げた。指が、ボタンの手前で止まる。
312件、ここで押してきた。押せば三秒後に扉が開く。誰かが出てくる。また来たんですか、とは言われない。初めて来た家だ。そして、二度は来ない。
押さなかった。
スタンプは、押せなかった。三年、理由はわからないままだった。
これは違う。押さない。理由は、わかっている。
同じ手だった。スタンプを欄に近づけて、押さずに戻す手だ。
三秒。扉は開かない。押していないのだから、当然だ。
門柱の郵便受けは、口が広かった。封筒は入る。入れれば、届いたことになる。
入れなかった。鞄の内側に戻した。
知りません、という一行を、俺は今日もう片方に届けた。届けない、という形で。それ以外の届け方が、この一行にはなかった。
封筒は、宛先不明のまま綴じる。本人が窓口に来る日があれば、その時に出せばいい。俺が決めたのは、今日の分だけだ。
背を向けた。洗濯物の小さい方が、まだ動いていた。
◇
階段を下りた。上りより、段数が多い気がした。
朝、鶴田に再編後の希望を聞いていた。鶴田は端末から目を上げずに答えた。
「保守課に残ります。観測する側でいます」
観測する側。俺は今日、観測する側にも、される側にもいなかった。インターホンを押していないから、折衝課の記録には何も残らない。訪問一件。介入なし。書く欄が、ない。
坂の下で、端末が震えた。
川瀬さん。
「森本さん。今、どこですか」
「坂の下です。通知を、届けずに帰るところです」
「届けずに」
「はい」
向こうで、何かを置く音がした。カップだと思った。それ以上は、聞かれなかった。
「じゃあ、こっちには来てください。コーヒー、置いておくので」
次話「最後の外れ値カップル」




