第百二十一話「川瀬さんと、これからの話」
川瀬さんの部屋に上がった。折衝課がなくなることを、伝えた。
◇
「折衝課、なくなるんですね」と川瀬さんが言った。「森本さんは、どうするんですか」
「……架橋課に、誘われています。縁を繋げる方の部署です。行くか、迷っています」
「なぜ」
三秒。
「……折衝課を辞めたら、俺はもう川瀬さんの担当でもなんでもなくなります。最初から業務じゃなくなっていましたが——肩書きもなくなる。折衝課の森本という肩書き。それがなくなったら——俺は、ただの森本になります」
肩書きが、なくなる。一年近く、「折衝課の森本です」と名乗って、川瀬さんの部屋に通った。その肩書きが、来月、消える。肩書きのない自分が、何の口実で、この部屋に来ればいいのか。最初は業務、次は「業務じゃないけど」、その次は——名乗るものが、もう何もなかった。
◇
川瀬さんは吹き出した。
「ただの森本さんで、いいじゃないですか。私、折衝課の森本さんに会いに来てもらっていたんじゃないです。森本さんに、会いに来てもらっていたんです。肩書きは、関係ないです。最初から、折衝課かどうかなんて、どうでもよかったんです」
肩書きは、関係ない。折衝課の森本でも、ただの森本でも。川瀬さんは俺に、会いに来てもらっていた。役割ではなく、俺自身に。
「川瀬さん。これから俺は、どういう立場で川瀬さんに会えばいいんでしょうか」
川瀬さんは少し考えた。
「立場、いりますか? いらないです。会いたいから、会う。それじゃ、ダメですか」
◇
会いたいから、会う。立場も肩書きも業務もいらない。一年かけて、俺はずっと立場を探していた。担当者、職員、業務上の接触。立場がないと、来てはいけない気がしていた。川瀬さんは、その全部が要らないと言った。
「ダメじゃ、ないです」
「じゃあ、それで」
川瀬さんは笑った。
「これからは会いたいから、会う。私も会いたいから、ドアを開けます」
「はい」
「あ、でも」
「はい?」
「『また来たんですか』は、言い続けますね。なんか、癖になっちゃって」
俺は少し笑った。一年近く聞いた八文字。最初は呆れた声で、今は迎える声で。
「どうぞ。言ってください」
「はい。言います。たぶん、ずっと」
ずっと。その一語が、軽く言われたのに、重く残った。
◇
帰り道、いつもの位置に立った。いつものように、一本やり過ごすつもりだった。一年近く、ここで一本見送ってきた。急いで帰る理由が、なかったからだ。折りに行った帰りに、まっすぐ帰りたくなかった。確かめられないものを抱えて、ホームで、少しだけ、立ち止まっていたかった。
電車が来た。
今日は、見送らなかった。乗った。
もう、確かめられないものを抱えていなかった。立ち止まる理由が、なくなっていた。確かめた。答えは出た。だから、乗れた。ドアが閉まる。窓の外を、いつものホームが流れていく。一年近く立っていた場所が、後ろへ、流れていった。見送る側から、運ばれる側になった。それだけのことが、一年かかった。
次話「押さない、インターホン」




