第百十二話「缶コーヒーの、同僚」
「相手の名前は、言わない」
課長は最初にそう言った。
「聞いていません」
「顔が聞いている」
「すみません」
課長は少しだけ笑った。
20年前の話をする課長は、普段より疲れて見えた。だが同時に、少し軽くなっているようにも見えた。
◇
「その人とは、どういう関係だったんですか」
「同僚だった。PAIRの試験チームにいた。よく議論した。よく喧嘩した。よく、同じ缶コーヒーを買った」
「コーヒー」
「笑うな」
「笑ってません」
「お前の顔は、たまに正直だ」
課長は窓を見なかった。壁の一点を見ていた。
「その人は、100%を見ても、俺に何も求めなかった。ただ言った。『数字が出ても、あなたが選ばないなら意味がない』と」
川瀬さんと同じことを、20年前の誰かも言っていた。
◇
「課長は、選ばなかった」
「ああ」
「その人は」
「制度を離れた。今は別の場所で、別の人と暮らしている。幸せそうだ。少なくとも、俺が見える範囲では」
「見ているんですか」
「年に一度だけな。公開情報で。気持ち悪いだろう」
「人間らしいと思います」
課長は、嫌そうな顔をした。
「お前、そういうことを平気で言うようになったな」
「川瀬さんの影響です」
「だろうな」
◇
課長は古い端末を閉じた。
「俺の100%の相手が誰かは、重要じゃない。重要なのは、100%を見ても選ばない人間がいることだ。そして、選ばなかった人間も、その後を生きることだ」
「後悔しながら」
「後悔しながらでもな」
その言葉は、痛かった。
100%は幸福を保証しない。
選ぶことからも、後悔からも、人を逃がしてはくれない。
「その人に、今も会いたいですか」
聞くと、課長はしばらく黙った。
「会いたいかどうかで言えば、会いたい。だが、会うべきかどうかは別だ」
「別ですか」
「別だ。100%を選ばなかった人生にも、責任は残る。俺が今さら会えば、相手の人生に俺の後悔を持ち込むことになる」
課長の声は、乾いていた。
「後悔している人間は、自分の後悔を正義に変えたがる。俺が折衝課を作ったのも、たぶんそれだ。選ばなかったことを制度の正しさに変えた」
俺は、何も言えなかった。
「お前は、そうするな。川瀬氏との100%を、制度批判の道具にするな。逆もだ。恋愛の証明にもするな」
「では、何に」
「お前たちのものにしろ」
課長は、そう言った。
缶コーヒー、という単語だけが、妙に生々しかった。
制度の話、100%の話、隠蔽の話。その中で、二人で同じ自販機の前に立っていたという小さな事実だけが、いちばん人間らしかった。
俺と川瀬さんにも、コーヒーがある。
二十年前の課長にも、コーヒーがあった。
数字より先に、たぶんそういう小さな習慣が、縁を作っていく。PAIRはそれを後から検知するだけなのかもしれなかった。
課長室を出ようとして、ドアの前で呼び止められた。
「一つだけ言っておく。その人の名は——」
課長は、そこで止まった。
閉じた端末に置いた指が、一度だけ動いて、戻った。名前は、口の手前まで来て、出てこなかった。
次話「20年前のERROR人間」




