第十一話「なぜ折衝課に来たのか、少し話します」
翌週。インターホンを押した。扉が開くまでの秒数を、もう数えていない。
「……また来たんですか」
今日の声は少し違った。何が違うのかは、言葉にできなかった。
「来ました」
「どうぞ」
◇
コーヒーが2人分、用意されていた。今日も俺から先に手をつけた。川瀬奈緒はそれを見て、何も言わなかった。
少し間があって、川瀬奈緒が口を開いた。
「先週のスタンプ、気になってました。もし言いたくなければいいんですが」
「……少し、話します」
川瀬奈緒は何も言わずに待った。
◇
「配属初日に、上司からスタンプを渡されました。案件が終了したときに押すものです。最初の案件に行って——帰り際に取り出したんですが。押せなかったんです」
「……なぜですか」
「わかりません。今もわかりません。ただ、それから一度も押せていない。312件、全部、終了処理は書類上で出しています。スタンプ欄だけ、空白のまま」
「……誰かに言ったことはあるんですか」
「ありません」
「私が初めてですか」
「……そうです」
川瀬奈緒はカップを持ったまま、少し考えた。
「押せない理由が、わからないんですよね」
「はい」
「でも毎回取り出してしまう」
「……そうです」
「……おかしいですね」
「そうです」
「私と同じですね」
「……」
「諦めない理由がわからないのに、諦められない——私もそれです」
川瀬奈緒は窓の外を見た。
「理由がわからないのに続いているものって、案外、一番本物なのかもしれないですよね」
一番本物。その言葉を、何も言わずに聞いた。
◇
帰り際に、川瀬奈緒が言った。
「折衝さん、なぜ折衝課に来たかって、まだちゃんと答えてないですよね。いつか教えてもらえますか」
「……今日は話せません。でも——また来ます」
川瀬奈緒は少し笑った。「そうですね。来ますよね」
◇
玄関で靴を履いて、ドアの向こうに出ようとしたとき——
「折衝さん」
振り返った。川瀬奈緒が廊下の端に立っていた。手に、傘を持っていた。前に借りたまま、まだ返せていなかった傘だった。
川瀬奈緒は少し間を置いて——傘を、投げた。受け取った。
「また返しに来るんですよね」
「……そうですね」
川瀬奈緒は何も言わなかった。ただ、少し笑った。ドアが閉まった。
◇
エレベーターに乗った。終了処理書類が、まだ白いままだった。
スタンプを取り出した。書類の「介入完了」の欄の、少し上のあたりに持っていった。三秒、持っていた。しまった。
所見欄を開いた。
「スタンプについて、川瀬対象者に話した。なぜ話したかは、わからない。傘を、また借りた。」
なぜ話したのか、もう一度考えた。312件、誰にも言わなかったことを、なぜ彼女にだけ話したのか。たぶん、「私と同じですね」と言われたからだ。理由がわからないのに続くもの同士。秘密を打ち明けるのに、それ以上の理由は要らなかった。同じ場所に立っている、というだけで。
データには残さない。
外に出た。秋の風が少し冷たかった。手の中に、川瀬奈緒が投げた傘があった。




