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恋愛フラグ管理局折衝課 〜成立確率11%の彼女を折りに行くたび、なぜか俺との縁が育っていく〜  作者: よるの 余白


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第十話「スタンプを、初めて見られた」



 翌週。


「また来たんですか」という声が、最初の頃とほとんど同じだった。


 同じだったから、少し気になった。


 田村の婚約を聞いた次の週なのに、声が同じだった。


 同じであろうとしているのかもしれない、と思った。


   ◇


 部屋に上がった。


 今日のコーヒーも濃かった。テーブルの隅に、開いたままのノートパソコンがあった。求人サイトの画面だった。


 川瀬奈緒はそれにちらりと目をやって、静かに蓋を閉じた。


 生活は、続いている。


 終わらせに来る男の前でも、彼女は次の仕事を探している。哲学的なことばかり言う人ではない。家賃も、生活費も、ちゃんと気にしている人だった。


 それが、なぜか少し、安心した。


「転職ですか」


「契約が一つ終わりそうなので。翻訳の仕事は、切れ目が急に来ます」


「大変ですね」


「ええ。でも、文章は待ってくれないので」


「文章が、待ってくれない」


「はい。待ってくれるのは、折衝さんくらいです」


 川瀬奈緒は、言ってから少しだけ目をそらした。


 俺は、その言葉の置き場所がわからなかった。


   ◇


 インタビューを終えて、帰り支度をした。


 書類をバッグに入れて、立ち上がる。


 胸ポケットに手を入れた。


 癖だ。


 帰り際に毎回やっている。スタンプを確認して、ポケットに戻す。


 今日も取り出した。


 押せない。


 ポケットに戻そうとした。


「それ、何ですか」


 川瀬奈緒が言った。


   ◇


「介入完了のスタンプです」


「印鑑みたいなものですか」


「そうです。案件が終了したときに、書類の所定欄に押します」


「今日、押さなかったんですか」


「継続案件ですので」


「そうですね」


 川瀬奈緒は少し間を置いた。


「一度も、使っていないんですか」


 俺は、黙った。


「今ポケットから出したときに、なんか——新品のような感じがしたので」


 使っていないから、そう見えた。


「使ったことが、ないんですか」


 確認のような声だった。


「……ありません」


 川瀬奈緒は少し前に身を乗り出した。


「ということは、私の案件以外でも、一度も?」


 三秒。


 五秒。


 十秒。


 川瀬奈緒は続けなかった。


 俺も、答えなかった。


 ブランコが風に揺れる音が、窓の外から聞こえた。


 それだけだった。


 答えないことが、答えになっていた。


 川瀬奈緒はそれを受け取って、それ以上は踏み込まなかった。踏み込めば壊れるものがあると、わかっている踏み込み方の止め方だった。


 彼女はカップを引き寄せて、何でもないことのように、コーヒーを一口飲んだ。


 見られた。


 312件、誰にも見せなかったものを、この人に見られた。


 なのに、嫌ではない。


 それが、一番おかしい。


   ◇


 帰り際、玄関で靴を履いていると、後ろから声がかかった。


「折衝さん。また来るんですよね」


「来ることになります」


「業務として」


「はい」


「そうですか」


 川瀬奈緒の声が、少しだけ最初と違って聞こえた。


 最初は「また来たんですか」だった。


 今日は「また来るんですよね」だった。


 来たことを確かめる声から、来ることを願う声に、いつの間にか変わっていた。


 たぶん、彼女は気づいていない。


 俺も、玄関を出るまで気づかなかった。


 ドアの外に出た。


 借りた傘を返すのを、また忘れた。


 手ぶらだと思って胸ポケットに触れると、新品のスタンプの硬い角が、布越しに指に当たった。


 一度も誰にも見せたことのなかったものを、今日、見られた。


 見られても、まだ、押せないままだ。


 押せないまま見られたことで、なぜか少しだけ、肩の荷が軽くなった気がした。


 秘密は、隠している間より、知られた後の方が軽い。


 そんな単純なことを、312件かけて、今日初めて知った。



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