第百七話「呼ぶ、練習」
明後日、俺は約束してから川瀬さんの部屋に行った。
インターホンを押す前に、端末の予定を確認した。
川瀬さん宅訪問。
業務予定ではない。自分で入れた予定だ。
タイトルをどう書くか迷って、結局それだけにした。
◇
「また来たんですか」
扉が開いた。
「約束したので」
「はい。約束しました」
部屋には、二人分のコーヒーがあった。
今日は普通だった。
「100%記念は終わりですか」
「毎日濃いと、疲れるので」
「そうですね」
「でも、あなたが来る日は、二人分です」
その一言で、俺はカップを持つ手を止めた。
◇
「森本さん」
彼女が呼んだ。
「はい」
「まだ、慣れません」
「俺もです」
「折衝さんの方が、呼びやすいです」
「戻しますか」
「戻しません」
即答だった。
「なぜですか」
「業務に戻したくないので」
俺は、何も言えなくなった。
川瀬さんは、カップを置いた。
「森本さん」
「はい」
「呼ぶ練習です」
「……はい」
「森本さん」
「はい」
「慣れてください」
「努力します」
彼女は満足したように頷いた。
◇
呼ぶ練習のあと、少し沈黙があった。
「奈緒さん、と呼んだ方がいいですか」
口に出してから、自分で驚いた。川瀬さんも、驚いた顔をした。
「今ですか」
「いえ。今ではなく」
「いつか、ですか」
「……いつか、かもしれません」
川瀬さんはカップを両手で持って、視線を落とした。
「じゃあ、今日はまだ川瀬さんで」
「はい」
「でも、予約は受け付けました」
「予約」
「いつかの」
彼女はそう言って、笑った。
名前の呼び方一つに、こんなに段階があるとは思わなかった。折衝課では、対象者名だけでよかった。業務外では、呼び方に未来が生まれる。
呼び方が変わるだけで、部屋の広さまで変わったように感じた。
折衝さん、と呼ばれると、俺は扉の近くに立っている気がした。森本さん、と呼ばれると、少しだけ部屋の中に入った気がする。
たった数文字で、立つ場所が変わる。
言葉を扱う翻訳者の彼女は、たぶん最初からそれを知っていた。だから、呼び方を変えることを、一つの選択として差し出したのだと思う。
何度も呼ばれるうちに、名前が少しずつ自分のものになっていく気がした。
森本遼。職員番号でも、担当者名でもなく、彼女が呼ぶ名前。
同じ名前なのに、呼ぶ人が変わると意味が変わる。恋管の名簿にある名前より、彼女の口から出る名前の方が、ずっと扱いが難しかった。
◇
帰るとき、胸ポケットのスタンプが少し軽かった。
使っていない。押していない。何も変わっていない。
ただ、もうそれを「押せない欠陥」とは思わなかった。
押さないでいることも、選択かもしれない。
そんなことを、初めて考えた。
部屋を出るとき、川瀬さんが小さく言った。
「森本さん。ちゃんと、言えました」
「俺もです」
たった四文字を、二人とも何度も練習した。業務では一度も練習しなかった呼び方を。練習しないと言えない名前が、いちばん、本物な気がした。帰り道、口の中でもう一度だけ、言ってみた。
次話「本部の結論」




